泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

2人いるから苦労も2人分、ではない。

 「きょうだいそろって自閉症」というのは、まったく珍しくない。そのような家庭の相談が続いた。
 子どもの障害の程度にもよるけれど、自閉症児が同じ家に2人いると、大変さも2人分、ではない。それぞれへの対応に加えて、子どもどうしの特性がぶつかりあったときの難しさに親を困り果てる。その苦労は、学校や事業所ならば物理的に回避できる場合も多く、教員や支援者に共感してもらえないことも多い。
 2人いっしょに同じ車に乗りたがらない。お互いに好ましくない行動を助長してしまう。ひとりならば周囲の環境を整えたり、おとなの対応を改めれば解決できるのに、きょうだいがいるためにそれができない。お互いに接触せず別行動をとれればよいが、それもまた現実的でない。しばしば2人が家にいる状況で解けるのだろうかと思えるような課題が、自分たち支援者にも突きつけられる。
 きょうだいの衝突を避けるのに最も手っ取り早いのは、どちらかだけが(あるいはどちらもが)事業所を使うことだ。そのような家庭は支援のヘビーユーザーになりやすいように感じる。それでも子どもは家にまた帰ってくるのだから、根本的な解決にはならない。衝突する時間を短くしながら、子どもが帰ってきた後の策を多くの親は練る。孤独な作業だと思う。支援制度は昔よりも「家庭と連携すること」に力を注いでいるけれど、支援者を家に招き入れるハードルは高い。部屋の間取りだとか、家庭内での生活スケジュールだとか、私的な領域に他人が入ってくることへの抵抗感は人それぞれでも、どちらかと言えば消極的な家庭のほうが多いのではないか。
 家族がわが子たちの発達や特性に応じて知恵を絞れること、我が家の中で環境を整備できることが望まれる。それはきょうだいがいなくたって同じだけれど、子どもがひとりならばなんとなく子どもが不快さを感じない程度の環境に落ち着いていきやすい。そんなにわかりやすくも過ごしやすくもないが、そんなに苦痛でもない我が家。ところが、きょうだいそろって自閉症、は互いの世界を侵襲する。なすにまかせているうちに、どちらかが一方的に迫害されてストレスをため込んでいくのは、こわい。
 自ら子どもに対して何をするか、にとどまらず、家族による子ども理解をどう深めていけるのか、が支援者に問われるという点で、「きょうだいそろって自閉症」はただ「預ける・預かる」だけで終わらせられない支援が最も先鋭的に必要とされる状況のひとつなのだろう。そのような複数の家庭から寄せられる嘆きと向き合う自分たちは、良い機会を与えられている。