泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ニーズが社会制度を生み出さないのはなぜか

いま、だいぶ精神的に病んでいるのですが、下の記事でせっかく自分について言及いただいたので、思うところを少し書いてみたいと思います。

書かれていることについて、およそ頷きながら読みました。

ひとくちにNPOと言っても、課題解決のためにさまざまな手法を用います。公私関係についての考え方もさまざまでしょう。公的責任のもとに行われるべきことは何か。政府の役割とは、民間の役割とは何か。それは自ずと財源論を導くことになり、ファンドレイジングの手法をも規定していくことになります。

自分が取り組んできたのはおよそ「社会福祉」と呼ばれる世界での支援でした。社会福祉とは何かという話はなかなか難しいのですが、歴史的に見れば民間での先駆的な取り組みが生活に困る人たちの課題を明るみに出し、「公の責任」を問いながら、少しずつ受けられる支援を拡げてきた、と言ってよいと思います。それは公費(社会保障費)の増大を意味するわけですから、「人々の支え合い」であるとか「市場」でどうにかならないのか、という意見が出てくるのも自然なことです。

自分にとっては「公的な責任のもとに解決されるべき問題」への対処こそが、社会福祉の真骨頂です。個人の力ではどうすることもできず、「支え合い」や「市場」でも解決されない領域。再分配のあり方を問わなければどうにもならない部分。

自分がNPOの世界と出会ったのは2000年前後のことです。当時でも、他分野のNPOと関わっていると、あるべき資金調達についての温度差は少なくありませんでした。公的資金が投入されやすい福祉分野のNPOは他分野(例えば、環境とか国際協力とか)から苦々しく受けとめられ、大切な支援をやっていてもNPO業界内では「イケてない」と評価されやすいように感じていました。昔からある「社会福祉法人」と何が違うのか、とも思われていたでしょう。公的な責任のもとに行われる事業の単なる受け皿といっしょにされたくない、という人たちもいたはずです。

そのような中にあって、業界内で評価を受けていたのは「多くの人々と課題を共有すること」に長けたNPOだったように思います。「NPOらしいNPO」なんて言葉も聞かれました。これまで課題に関心を持たなかった多くの人たちからの共感を得ながら、展開させていくことが「NPO的」であるというイメージです。

公的な課題解決へ向けて施策が動き出すには、必ずしも社会全体の支持が必要じゃありません。当事者や家族や支援者による運動だけで大きく前進していける施策もあります。自分が最も長く関わってきた障害児の福祉もそうです。今でいう「子どもの貧困」や「待機児童」のように大きな注目を集めたことはないのに、使えるサービスはこの10年ほどで劇的に増えました。なぜなのかは、自分にもよくわかりません。それが「政治力」なのかもしれません。

「多くの人々と課題を共有する」には、さまざまなやり方があります。課題そのものをセンセーショナルに伝えてもよいし、課題解決の方法に新しさを見せてもよい。多くの課題は昔から変わらずあるのですから、その「伝え方」「見せ方」が大事です。例えば、障害者福祉で言えば、かつては目立たなかった「発達障害」をクローズアップしたり、「障害者にもこんな才能や能力があるのだ」とアピールしたりする取り組みは、耳目を引きます。インパクトがあり、情報の受け手の価値観を揺さぶるような発信が支援者を増やすわけです。

この延長にファンドレイジングもあると思えば、記事の中の「おしゃれNPO」がそれほど新しいものとは自分には思えていません。「社会起業家」系の人たちは「ビジネスの手法」を社会的な課題解決に活用してきたわけですが、それは「課題」という「商品」(皮肉ではありません)のマーケティングにも生かされます。インターネットが普及した結果、20年ほど前よりも目立ってきた、ということでしょう。

 さて、それでは「ソーシャルセクターによる私的救済」を自分自身も求めて活動していくのかと問われれば、たぶんこれからもやらないだろうなあと思います(リンク記事中で「その影響力を使い、私的な資金調達も可能だろう」と書いていただいたのはうれしいことですが…)。

大きな注目を集めることのできるおしゃれでかっこいい社会起業家とそのマーケティング戦略が、この社会の課題をすべて照らして、莫大な資金を持続的に調達できる、なんてことは幻想です。私たちがフィールドとしている地域で障害児を支援する福祉サービスに費やされる公的予算額は昨年、1億円を超えました。とても小さな町です。20年前は限りなく0円に近い数字でした。

昨今のクラウドファンディングの隆盛を踏まえても、それらが社会制度に取って代わるような力はないでしょう。局所的に特定の社会資源をスタートできる、程度です。

では、社会起業家による多額のファンドレイジングの成功例は、社会制度の変革をあきらめた結果と考えてよいでしょうか。もしかしたらそれで悦に入ってしまう人がいるのかもしれませんが、自分はそのように考えていません。

ここが重大な問題と思うのですが、社会制度を創出しようとする過程には、「必要」を示すよりも前に、まず「支援」を提供しなければいけない、というルールがあるように思います。すなわち「実績」が必要だということです。

何らかの支援の「必要性」は本来、丁寧なリサーチによって明らかにできるはずです。「こんなことに困っている」という当事者の声を集めて、その解決策を導ければ、すぐに社会制度が生まれ、支援がはじめられてもおかしくありません。けれども、そのようなリサーチが公的になされて、そこから制度が設計されることはめったになく、まず誰かがやってみる。そして、現に支援が提供されているのだから、ニーズがあるとみなされて、制度化がはじまる、という順序です。「こども食堂」もそうであり、「こども食堂」の次の展開もきっとそうなのでしょう。

自分自身が「やりがい搾取」について記事を書いたわけですが、自分はボランティアを否定するわけでもなく、その社会的な価値を認めています。もともと学生ボランティアからの出発でしたから。

社会や行政に求めたいのは、どんな形で取り組みがはじまるにしても、そこでニーズが具体的に見えてきたら、誠実に対応しようとする柔軟さです。やってみる中でわかってくることはたくさんあります。事前の想定を上回ることも下回ることもあるでしょう。ボランティアでできると思っていたことが、無理だとわかることもあるでしょう。

そのとき、次のステージへと向かうことをみんなで始めなければ、ずっと「やりがい搾取」が続いたり、一時的な特殊事例のままで終わってしまったりします。ひとたびはじめた支援を無責任に終わらせたり、誰かが無理を続けることにしないためにも、支援が社会制度としてニーズに適したものになるところまでみんな注目を続けてほしい。そのように思います。行政に対しても、寄付者に対しても、です(もちろん注目を続けてもらうためのNPO側の努力も大事です)。

リンクした記事中で言及された件についてはまだ結論が出ておらず、他にも小さな法人を揺らがせる課題が次々と出てきた4月で、心身ともにボロボロなのですが、書いてみました。なお「ですます調」なのは、すさんでいく気持ちを穏やかにしたかったからだと思います。たぶん。

自分の心身と組織がどうにか平穏を取り戻しますように。今夜は、朝までちゃんと眠れますように。