泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「情熱的なボランティア」の後始末

 自分が勝手に師匠として仰いでいた支援者は、今年のはじめに亡くなった。大きな法人の設立者でもあり、何も障害福祉が存在しなかった地域の開拓者でもあり、実質的な経営者でもあった。知的障害者支援の業界ではよく知られた人である。
 「必要なものは創る」「必要なことはする」精神で、次々と新しいものを先駆的に作っていった。障害福祉の制度もほとんど整っていないぐらいの時代。彼は「運動」という言葉を好んで使い、仕事としてというより社会の一成員として障害者のためにできることを為そうとした。地域から、障害者から、家族から期待されて、どんどん組織は大きくなり、多くをより若い支援者たちに委ねるようになっても、地域の中で知的障害の人たちとともに暮らしていた。すべてを支援のために投げ打っていたような暮らしぶりだったが、障害者とともにいることが彼にとっての幸せであったのだろうと思う。
 「社会福祉」を、貧困・低所得の問題と切り離して考えようとはしない世代だった。障害者の生活を支える仕組みがない中で、どのように資源を生み出していけばよいか。ある時期から障害者の地域生活支援を志す人たちの中にも、今でいうところの「ソーシャルビジネス」的な手法を選ぶ人が出てきたが、彼は「払える」ことを条件にした支援を望まなかった。結果として、ボランティアとしての支援が増大していく。彼にとって「運動」という言葉は「ボランティア」とほとんど同義だったのかもしれない。
 ボランティアによる支援を膨れ上がらせるうちに、だんだん「制度」が追いついてきた。金にならなかった支援に、いくらか公費が支払わられるようになってきた。とすれば、ボランティアによる支援は縮小されていくはずである。ところが、これが簡単にはいかない。制度になっても、みんながやりたがらない時間、やりたがらない給与、やりたがらない内容の支援は残り、古参のスタッフは業務時間を超えたところでの支援を続けていく。
 一方で、制度化に慣れた時代の支援者たちはそれに追随しない。「必要だから」と無理をする者が減っていく。ワークライフバランス。「運動」による支援が限界に達した組織は、それ以上大きくなることをやめた。にもかかわらず、長年にわたって作り上げられてきた文化と新しい時代の価値観の溝は容易に埋めることができず、ずっと苦しんでいる。単に雇用のあり方をうまく変えられなかったのが悪い、と片付けられる問題だろうか。一時代の地域の福祉を自分たちだけで背負わざるを得なかったがゆえの苦しみ。
 今となっては、整えられた制度の中で新たな法人、新たな事業所が経営的に無難な事業を選んでいく。当事者からの期待もそれに応じたものになり、何をやってもやらなくても誰から責められることもない。必要な支援があれば、どこかがはじめるのをみんなが待つ。行政も事業所も家族も。経営的に余裕のできた法人がはじめるのを待っていれば、そのうちなんとかなるという楽観。悲観する人々が何かをはじめるとしても、もうゼロからではない。
 師匠は、このような時代をどう捉えていたのだろう。ひとつの組織で支援を抱え込まなくてもよくなったことを喜ぶ反面、一抹の寂しさと悲哀を感じてもいたのではないか。支援者の心意気でやるような支援が無くなっていくことに対してではなく、支援をする者と支援を受ける者がともにゼロから何かを作り上げていくような機会と連帯感が失われていくことに。そして、ただ必要なものを作り上げようとしてきた激情が、結果として多くのフォロワーたちを苦しめる結果になってしまったことに。
 20年後30年後の見通しが立てられないならば、何もすべきでなかったのであろうか。そうではあるまい。しかし、とにかく必要なものをまずはボランティアでも何でもいいから作るしかなかったことの後始末に、福祉業界やNPO業界は冷たいと思う。新規事業や起業を誉めそやす人も資金や知恵を出してくれる人もたくさんいるが、時代に合わせた組織の再構築に関心をもつ関係者は少ない。いや、きっといるはずだが、目立たない。だから、みんな手探りになる。
 自分も障害児支援なんて何もなかった頃から子どもの親たちと活動をはじめて、18年。法人設立から数えれば10年。支援は「サービス」となり、「雇用」となった。もし、はじめからこの環境が与えられていたならば、起業していただろうか。たぶん、していない。自分よりもっとうまくやれる人間がいるだろうから。自分がいま苦しんでいることは師匠の晩年とよく似ている。そして、適切な助言をしてくれる人は、まだ見つからない。