泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「エンパワメント」はなぜ求められたのか

 この数週間のあいだに聞いた話や読んだものから考えたことだが、誰かが対人援助における「エンパワメント」とか「ストレングス」の歴史社会学的な研究をすべきだと思う(既に本格的にやっている研究者がいたら、ごめんなさい)。読んだものなどを具体的に引用などしながら文章にする時間も気力もないので、以下はメモ程度。
 日本においては、ある時期から「エンパワメント」等の言葉が海外から紹介され、よく用いられるようになった。「その人がもっている強みに注目しよう」とか「その人自身が主体的に生きられるようにしていこう」という言説は、なぜ普及してきたのか。
 例えば「エンパワメント」の強調は、社会福祉が抑制される中で生活上の課題を少しでも自力で解決してもらわなければ困るようになってきたからだ、という人がいる。介護保険のように利用できる支援の上限が決まった制度が多く利用されるようになったのが良い例だ。「エンパワメント」ブームは、福祉の「市場化」をスローガンのひとつとした社会福祉基礎構造改革とも時期が重なっている。社会学的なアプローチが最も強みを発揮するのは、この答えかもしれない。
 福祉サービスを利用する人の中に過度の依存を見せる人が増えてきたから、という人もいる。「依存的な自立を目指せばよいのだ」という主張はさておき、支援を得ながらも特にメンタルな部分での元気に結びつかない人々を見たり、共依存的な関係に陥ってしまったりという経験から、自分たちの支援の目標設定を「エンパワメント」に改めようと考えた支援者や研究者はたくさんいただろう。
 現場で人手不足などからサービス調整の負担が加速していくと、「もう少し頑張ってくれてもいいんじゃないのか」と言い出す者も現場にはいる。身近でも見たことがある。そんなふうに心が折れそうになった支援者が好意的に受け止めて広まった部分もまたあったかもしれない。
 福祉サービスの抑制路線なんてなんのその、とことんまで当事者のニーズに応じられる支援を続けた結果、次第に本人が力を取り戻していくのを見て、その状況を名づけるのに「エンパワメント」が最もしっくりきたから積極的に用いるようになった、という人もいる。
 なぜ「エンパワメント」は広まったのか。これらの中でひとつの正解があるのかと言えば、たぶん違う。便利で、さまざまな立場からの共感が得られるからこそ広まったのだろう。だからこそ、使われる文脈の多様さに自覚的でないと、過度に問題を政治化したり、逆に技術論に矮小化されたりしてしまう。そして、同じ「社会福祉」の中で無用な対立を生むことにもなりかねない。
 ちなみにこのようなことを考えたのは、三島亜紀子さんによるこの論文(※英語)を読んだ後に、以前に紹介した本(→この記事)の著者である安井さんの講演を聞く機会を得られたからであった(5回もお話が聞ける贅沢なセミナーを組んでくださった方に心より感謝)。
 「エンパワメント」をいかに語るのがよいか。もう少し考え続けるつもり。