泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 ああ、何か書かなければ。時間ばかり過ぎる。
 支援学校生の新入生歓迎会を催した。正確には「親の会」が企画したプログラムのお手伝い。とはいえ、ボランティアも含めてかなりの数のスタッフが参加。
 来てもらえなかった新入生と家族のことが気になって仕方ないのはたぶん自分だけで、みんななんとも思っていない。今どき珍しいぐらいに学齢児の「親の会」がまだまとまりをもっているし、コアになっている母親たちはとても活発なのだけれど、同じ地域に暮らす者として互いの生活を思いやっている感じとは少し違う気がする。ただ活動を「楽しんでいる」のだけは伝わる。
 この活動を通じて子どもや家族にとっての困りごとを見出そうとか、必要に応じて支援の形を変えていこう、という意思は出席者に見えない。それは福祉サービスと相談支援の仕事となった。「ボランティア活動」や「親の会活動」の背負うものが少なくなった、と言えば、良い時代だ。が、しかし。
 この空虚な感じは単なるノスタルジーだろうか。10年前は親たちの中にも「支援者」と呼べる存在感をもった人がいて、別の親や子の思いを強烈に代弁することがあった。それはときに余計なお世話であったり、エンパワメントとはかけ離れた強引さを持っていたりもしたけれど、大事なことに気づかされもした。
 うちがきょうだい児の活動参加に熱心なのも、きっかけはある親からの強い提案だった。その親の子にきょうだいはいない。活動内容が重度の子ども向けに偏っているから、もっと軽度の子ども向けのものを考えられないか、なんて主張をするのが重度の子の親だったりした。そして、ボランティアもまたそれに共感して、応えた。ボランティアプログラムとはまさにボランティアコーディネーションの古典で言うところの「共同の企て」だったのだ。
 地域に支援学校生が数十名もいれば、それぞれにとっての必要は全くばらばらであるに決まっている。あたかも最大公約数のように見えるプログラムは、実のところ多くの親子を遠ざけている。満足している親子の声しか、自分たちには届いていないだけだ。たとえ声が届いても「仕方ない」と割り切り、「足りていない部分は誰かがやってくれ」と待っていれば、確かに誰かがやってくれるのかもしれない。しかし、やってくれないかもしれない。
 全体を管理統制するような中心をもたないまま、創発的に新しいものが生まれていくようなシステムを実現させるには、いろいろと必要条件があるのだろう。障害福祉制度はずいぶん変化してきたが、それらの条件が制度的なインセンティブだけで満たされるようには思えない。そして、「自分に何かができうる」と信じる者の数は、むしろ減らされている気がする。親も、ボランティアも、もしかしたらプロの支援者も。
 みんな元気だが、策は持とうとはしない。自分は策を持たねばならないと思っているが、元気は出ない。残念ながら相補的ではないらしい。ただ、すれ違うだけである。