泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

増えゆく資源と募る空虚感

 自分が代表をしているNPOは、地元自治体に暮らす障害児とその家族にしか直接の支援をしていない。法人で掲げる理念の中に自治体名を入れているし、どの利用者の家も少しがんばれば自転車で行けるぐらいの距離だ。一番遠くても片道5キロぐらい。
 多くの事業所がいくつもの自治体をまたがって支援を提供しているのに対して、このようなやり方はかなり流行らない。学生の頃からこの地域に育てていただいた恩返しという意味もあるけれど、人口数万人程度の小さな地域なのだから、障害児支援中心の事業所なんて2つもあれば、かなり対応できるのではないかと思っていた。
 今でもその考えはさほど変わっていない。どのぐらいの社会資源が必要であるのかは、子どもの数からある程度は予測できる。屋内・屋外など、複数の支援形態を併せて1日に子どもを15人ぐらい支援できる事業所が2か所あり、一般的な子育て支援の資源(保育所、幼稚園、学童保育所など)が適切に障害児を受け入れられれば、量的にはほとんど対応できる。
 うちがその事業所の1つ目になることはできた。一方で「2つ目」として期待をかけていた大手の社会福祉法人は子どもの支援からどんどん離れていった。さらに、都市計画やまちづくり条例の規制の高さも、「2つ目」の誕生に立ちはだかった。自分たちで2つ目を作る力もないまま、10年かけてじわじわと膨れ上がったニーズは自分たちだけでは対応しきれなくなっていく。
 報酬改定があって以来、近隣自治体には続々と事業所ができている。営利企業による事業所が乱立状態で必死に営業をかけているところさえある。制度上の「相談支援事業者」が次第に「事業所を紹介してくれるところ」として認知されるようになり、うちの需給調整能力が厳しそうとみるや、どんどん他地域の事業所利用へとつなげられていく。
 保育や学童保育の利用に他自治体まで行かなければならないとなったら、大問題である。しかし、自治体担当者は「移動支援や一時支援の事業所が増えてきた」と単純に喜ぶ。「『他自治体に』だろう?」と念を押したくなるが、障害児については「使えさえすれば資源はどこにあったっていい」という行政。利用者の側にも少なからずそんな気持ちは見える。最近は、「生活支援」というよりも、しばしば「習い事」に近い利用意識も感じる。水泳教室や語学教室に通うのに「地域」を意識する保護者はあまりいないだろう。それに近い。
 うちの事業所は、他法人の相談支援事業所と同居(間借り)しているために、目の前で「本来ならば、うちが責任もって支援すべき」と思っている子どもにどんどん他地域の事業所が紹介されていく。新設された事業所の名前も次々と聞くようになる。名前だけ聞いても、いったい「何」を大事にしたいのか、という信念は見えない。たぶんこれからも見えないのだろう。ほとんどの事業所の信念は「良いサービスを提供すること」であり、それ以上でも以下でもない。何も言っていないのと同じであるが、使う側もそんなことを気にしない。子どもの預かりであれ、楽しいプログラムであれ、外出支援であれ、まずは子どもを必要なときにケアしてもらえれば、それでいいのである。
 実際にそれでいいではないか。何の問題があろうか。みんなハッピーではないか。
支援を必要とする人々から顕在的に示されたニーズに応じていくことの延長に、障害児者支援の理想郷があるならば、それで何も問題はないはずだ。その過程で確実に人々の「障害児福祉」観はある方向に形成されていくのだろう。「習い事」のように、あちこちの会社が運営する事業所にあり、その中から好きなところを選んで過ごす。それでおさまらない困りごとが出たら「相談支援事業所」に行き、また別の事業所を紹介してもらう。事業所もまた定員いっぱいまでの子どもは喜んで受け入れる。それを超えたら、ごめんなさい。いや、利用者に向けてごめんなさいと言う機会すらないかもしれない。相談支援であらかじめ待ったをかけてくれるのだから。多くの保護者にとって、事業所にとって、障害児福祉とはそのようなものになっていく。これから「ソーシャルワーカー」は相談支援事業所にさえいればいい。
 一般的な子育て支援資源も含めた支援の質の向上とか、地域に暮らす人々の障害理解とか、障害をもつ子どもにやさしいまちづくりとか、保育や教育との連携とか。そんな課題なんて興味のなさそうな事業所に子どもたちが次々と通うようになる現状が、きっと自分は面白くないのだ。ただ、それだけのことだ。書いてみて、わかった。
 支援者もまた状況に応じて歩みを進めながら、周囲の動きに惑わされることなく、新たな支援や組織運営へのモチベーションを高めていかねばならないのだろう。しかし、自分はそれがうまくいかないまま、月日だけが流れている。