泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

未来に向けての総括(3)

 前回の続き。ちなみに、自立支援法でなく、支援費から総括をはじめているのは、障害福祉サービスの「制度化」がもたらしたもの、という意味では、支援費が大きな転換点だったと思っているから。
 支援費制度以前、知的障害をもつ人たちが使える社会資源が乏しかったことは既に書いた。年に一度、滋賀で行われる「アメニティフォーラム」に行くと大した制度の支えもない中においてもなんとか支援を広めていこうとする人たちばかりが集まっており、様々な運営の形を見ることができた。補助金を1円も受けずになされている実践の自由度が、うらやましがられたりもした。
 しかし、支援費がはじまり、国で一元的に設計された制度に皆が乗っかるようになった。障害児が使えるサービスとしては、主に日帰り短期入所と移動介護。日帰り短期入所に近い内容の支援をしていたところは既にあったから、「公的な支援を受けない」ことにこだわらない多くの事業所はそのまま移行することになった。それまでの子どもを「預かる」支援は「レスパイトサービス」などと呼ばれることが多く、家族の休息が強調されていたところから、「家族支援じゃなくて、本人支援が大事なんだ」と言われたりもしていた。
 初年度に恵まれた報酬単価が設定されたからといって、すぐさま社会資源が増えたかと言えば、実感としてはそうでもなかった。国の調査結果などみると、制度開始前よりも事業所数は激増したように見える。しかし、これは形式上事業所の指定をとったところの数字であって、まずは既に支援を続けていた事業所にますます多くの利用依頼が集中していったように思う。もともと複数の事業所があったところはともかく、多くの郡部の市町村などでは大きな社会福祉法人がどーんとひとつあって、そこが地域の支援すべてを一手に担ったりしていた。そんなところに新興勢力が現れるには少し時間がかかる。
 うちの法人は既に私的契約に基づく外出支援の実績があったから、少しずつ利用を増やしていくことができた(それでも最初の数ヶ月なんて月に10件も利用が無く、借金もした)。地元の社会福祉法人と役割分担をしていく地域像も共有できたので、利用者を奪い合うことにもならなかった。
 使う側にとってみれば、事業所の様子を見ながら、じわじわと利用を増やしていく感じだったろう。それまでの障害者福祉はまだまだ「サービス」なんて言葉にもなじみが少なく、利用者が事業所の側の事情もあれこれ勘案しながらサービスを使うことが多かったように思う。裏を返せば、事業者の側から利用者に対してあれこれ理由をつけて、支援の量をコントロールすることも珍しくなかった。限られた支援をどうやって地域の中で必要なところに投入していくのかを両者の間で考えられる環境にあった(もちろん皆がそんな発想に従ったわけではなかったし、それが望ましい姿かどうかも疑わしい)。
 時間が経つにつれ、支援費制度の中で次第に利用者の意識は変わっていったように思える。いや、これは子どもの支援を中心にしているから感じられることなのかもしれない。「昔」を知らない保護者が1年ごとに増えていったからだ。行政に申請を出し、受給者証を受け取り、事業者と契約する。支援がはじめから「サービス」である世代の保護者が増え始めた。定められた制度があり、事業所がある。認められた支給決定時間がある。表面上は「使えて当たり前」の仕組みが享受できるはずなのに、思うほどには使えないことに苛立ちを示されることも出てきた。
 サービス供給が追いつかない要因はいくつかあった。続く。 続きは→こちら