「ひとりっ子」と「発達障害」は似ている?
- 作者: 朝井麻由美,小山健
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2014/10/27
- メディア: 文庫
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自分はひとりっ子である。そして、子どもの支援をしている。
その立場からすると、きょうだい構成というのは、血液型診断のたぐいよりは、ずっと真剣に受け止められるべきではないかと思う。
環境がその個人の得意なこと、苦手なことと結びついているかもしれない、と理解できたら、周囲の見る目も変わりうる。また、当の本人が周囲と自分との違いを感じているのであれば、その理由を与えられることで、少し心が軽くなれるかもしれない。私のせいではなく、環境によるのだと。
このように考えると、ここでの「ひとりっ子」は当事者にとって「発達障害」の診断と似た構造を持っていることがわかる。「私」以外の何か、に因果帰属させられるようになることで、自分を責めることがなくなる。実際、自分はこの本を読んで、少し気持ちが軽くなった気がした。「同じような思いの人がたくさんいるのだ」という安心感もあるのだろう。
一方で「ひとりっ子」が「発達障害」と大きく異なるのは、当事者による行動の理由を「生育環境」に求めていく点だ。これは「発達障害」において、強く否定されてきたことである。「ひとりっ子らしい行動は、生育環境のせいで生まれたのだ」と言うなんてけしからん、という批判は、あまりなされそうもない気がする。
結果に深刻さがないからであろうか。いや、おそらく「育て方」よりも「きょうだいの有無」は、環境が別様でありえた可能性を考えられにくいからであろう。だから、親が責められることにはつながらない(少子化の中で、もっと別の観点から社会的にプレッシャーをかけられることはあるかもしれないけれど)。
では、他人について「ひとりっ子だから」と納得したり、対応を変えたりすることは健全だろうか。これもまたラベリングになるおそれは高い。たとえ「ひとりっ子」全体として何らかの傾向が見られたとしても、それが万人にあてはまる保証はもちろんない。「『ひとりっ子』らしくないひとりっ子」はたくさんいるだろう。「あいつ、ひとりっ子かあ。めんどくせえな」となるのもよくない。
すると、これはまた「発達障害」と似てくる。診断名が「決めつけ」につながったり、排除のための理由となったりする(思わず「ひとりっ子という発達障害」というフレーズが浮かんだ)。しかし、それは「発達障害」の概念が社会的に不要であることを意味しない。ある種の「文化の違い」をあらかじめ想定しながら関わることができるならば、少しだけ誤解やトラブルが避けやすくなるのかもしれない。その意味で「ひとりっ子」の育ちに何らかの傾向が見られるならば、知っておきたい。
が、科学的な根拠がまったく示されていない本である(大学教授へのインタビューは載っているけれど、どこからどこまでが学術的な根拠なのかもわからないし、インタビューが本文の前提になっているわけでもない)。自分で少し論文検索などかけてみたが、きょうだい構成と性格等の関連について、ネット上で読める論文はほとんどなかった(運動能力の違いに関するものは見つかったけれど)。
もうちょっと研究されてもよいのではないだろうか。ひとりっ子として、支援者として思う。