泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「ひとりっ子」と「発達障害」は似ている?

ひとりっ子の頭ん中 (中経の文庫)

ひとりっ子の頭ん中 (中経の文庫)

 「血液型本」みたいなものは読んだことがないのだけれど、たぶん特定の血液型の特徴がずらずらと書かれて「あるある」「これって私」という感想を抱きながら読み進められるものなのではないかと想像する。その点で言えば、同じような本である。軽いノリの本だ。
 自分はひとりっ子である。そして、子どもの支援をしている。
 その立場からすると、きょうだい構成というのは、血液型診断のたぐいよりは、ずっと真剣に受け止められるべきではないかと思う。
 環境がその個人の得意なこと、苦手なことと結びついているかもしれない、と理解できたら、周囲の見る目も変わりうる。また、当の本人が周囲と自分との違いを感じているのであれば、その理由を与えられることで、少し心が軽くなれるかもしれない。私のせいではなく、環境によるのだと。
 このように考えると、ここでの「ひとりっ子」は当事者にとって「発達障害」の診断と似た構造を持っていることがわかる。「私」以外の何か、に因果帰属させられるようになることで、自分を責めることがなくなる。実際、自分はこの本を読んで、少し気持ちが軽くなった気がした。「同じような思いの人がたくさんいるのだ」という安心感もあるのだろう。
 一方で「ひとりっ子」が「発達障害」と大きく異なるのは、当事者による行動の理由を「生育環境」に求めていく点だ。これは「発達障害」において、強く否定されてきたことである。「ひとりっ子らしい行動は、生育環境のせいで生まれたのだ」と言うなんてけしからん、という批判は、あまりなされそうもない気がする。
 結果に深刻さがないからであろうか。いや、おそらく「育て方」よりも「きょうだいの有無」は、環境が別様でありえた可能性を考えられにくいからであろう。だから、親が責められることにはつながらない(少子化の中で、もっと別の観点から社会的にプレッシャーをかけられることはあるかもしれないけれど)。
 では、他人について「ひとりっ子だから」と納得したり、対応を変えたりすることは健全だろうか。これもまたラベリングになるおそれは高い。たとえ「ひとりっ子」全体として何らかの傾向が見られたとしても、それが万人にあてはまる保証はもちろんない。「『ひとりっ子』らしくないひとりっ子」はたくさんいるだろう。「あいつ、ひとりっ子かあ。めんどくせえな」となるのもよくない。
 すると、これはまた「発達障害」と似てくる。診断名が「決めつけ」につながったり、排除のための理由となったりする(思わず「ひとりっ子という発達障害」というフレーズが浮かんだ)。しかし、それは「発達障害」の概念が社会的に不要であることを意味しない。ある種の「文化の違い」をあらかじめ想定しながら関わることができるならば、少しだけ誤解やトラブルが避けやすくなるのかもしれない。その意味で「ひとりっ子」の育ちに何らかの傾向が見られるならば、知っておきたい。
 が、科学的な根拠がまったく示されていない本である(大学教授へのインタビューは載っているけれど、どこからどこまでが学術的な根拠なのかもわからないし、インタビューが本文の前提になっているわけでもない)。自分で少し論文検索などかけてみたが、きょうだい構成と性格等の関連について、ネット上で読める論文はほとんどなかった(運動能力の違いに関するものは見つかったけれど)。
 もうちょっと研究されてもよいのではないだろうか。ひとりっ子として、支援者として思う。