泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

まちの便利屋さん

 夕方かかってきた電話に軽く受け流す感じで返答したのだけれど、こんな時間になって腹が立ってきた。
「隣町で無料でやっている『習い事』に子どもを参加させているが、それをこの地域でもしたい。講師はこの地域にもボランティアで来てくれると言っている。lessorさんのところの学生スタッフにボランティアで手伝ってもらえないか」という要望。
 学生ボランティアによる子どもたちの支援は、年間でのべ2000時間を軽く超える(正確な計算はしていないが、下手をすると昨年度は3000時間に達しているかもしれない)。需給調整とか相談とか助言とか面接とか、職員が行うボランティアコーディネーション関連業務は、年間で1000時間ぐらいに及ぶだろう。決して不本意なわけではなく、子どもたちにとっての親近感やアルバイトの確保などさまざまな面でメリットがあるからやっている部分も多いわけで後悔はしていないが、かかる労力は膨大だ。
 大学の移転などもあって、学生の確保は年々厳しさを増している。学生ボランティアの担当職員を置き、各大学において効果的と思われるリクルーティング戦略を立て、4年間で学生がステップアップしていく仕組みを作らねばならない。それも職員主導ではなく、学生自身が自主的自立的に活動を進めていけるようにしなければ、すぐにモチベーションが落ちて、活動は継続発展しない。担当職員に求められる技量は相当なものである。技術的なところだけで十分な確保ができるわけでもなく、ひたすら学生に頭を下げてお願いしなければいけないことも多い。金銭ではない形での「報酬」もずいぶん与えている(年間でいくら「差し入れ」しているだろうか)。学生が夜遅くまで事務所に残って作業していようが、担当職員は笑顔でとことん付き合う。
 そんな金にならないことを継続しつつ、法人として「赤字が確実でも、どうしても必要だから」と放課後の居場所づくりをはじめたのが昨年。少しでも赤字の幅を小さくするために設定した運営協力金が「高い」と保護者たちからブーイングを受け続け、「もっと赤字を出しても低所得の家庭のために金額を下げるべきなのか?」と思い悩む日々だ。
 そんな中で、気軽に「ボランティアで講師の先生を手伝って」である。それも、法人の事情を相当よくわかっているはずの親の会役員が。運営協力金について、行政まで巻き込んで議論したその場にいた役員が。自分はわが子を連れてくるだけ。
 自分たちで立ち上げたいことに必要な支援者さえ、自分で探そうとはしない。そして、多くの「健常児」の習い事なら月謝だって有給職員だって当たり前だけれど、「障害児だから」なのか「隣町がそうだから」なのか、「無料」で「ボランティア」。一方で、この地域には各自が1時間あたり数千円を出し合って講師を招き、音楽療法をはじめた保護者グループもある。単に所得の多寡による違いにも見えない。
 これほど福祉の制度化が進んだにも関わらず、制度を一歩踏み越えると「有償/無償」「有料/無料」の区別(期待)は全く偶発的に生じているかのように見える。ある部分で「健常児」との「平等」を求めながら、ある部分では「特別な配慮」を求めるのは全く正しい。しかし、そんなレベルの話にはなっていない。単に安くて、頼みやすいところに頼む。それだけである。本当に馬鹿馬鹿しい。