泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

改めて放課後のこと

 ずっと絶望中。
 自分の絶望とも無縁ではない話。AFCPさん経由。
5人の保護者異議 堺市学童保育
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000805100002
発達障害児の放課後
http://homepage3.nifty.com/afcp/B408387254/C174902512/E20080518131628/index.html
 情報量が少なすぎて、わからないことが多いが、おそらく新聞記事だけ読めば「コストを抑えようとする悪辣な堺市行政」という世論が喚起されるのだろう。「国が受け入れろと言っているのに、地方の判断で何て勝手なことを」と。
 それは全くもって嘘である。国はそんなことができるとは全く信じていない。信じていれば、現在のような制度設計になっているはずがない。「障害のある児童や虐待への対応等特に配慮を要する児童について、利用の希望がある場合は可能な限り受入れに努めること」というのは、平たく言えば「できるだけ」「がんばれ」ということである。「可能な限り」は多義的だから、「財政的に」も含めうる。「金が無い」「人がいない」、なんでもあり。
 一定の制度化がなされている「障害児にとっての放課後の居場所」は複数ある(ガイドヘルプを利用してどこかの場所で過ごす、というのは除く)。おそらく以下の4つだ。
1)児童デイサービス
2)日中一時支援
3)放課後児童クラブ(いわゆる「学童」)
4)放課後子ども教室
 ここに知的障害と発達障害をもつ小学生が1人いたとしよう。その子はこの4つの全てを利用できる可能性がある。少なくとも制度上は。地方自治体が独自に事業化しているものもあるので、全国どこにでもありうるもの、という条件をつけて、4種類もあるのだ(「現時点で」の話なので、過去には他にもあった)。もう、この時点でいかにこの支援領域が混乱に満ちているかわかってもらえるだろう。さらに説明を加えていくと、いっそう混沌としてくる。
 障害者福祉施策としては上のふたつ。児童デイサービスはもともと就学前の子どもの療育に主眼を置いたものだった。ところが、学齢期の放課後支援が課題になるにつれて、他に使えるサービスが何も無い中で次第に拡大解釈が進み、実質的な放課後対策としても事業が行なわれるようになった。それゆえ、「児童デイ」と名乗りながら、「就学前の子どもの療育」を行なっているところと、「学齢児の放課後の一時預かり」をやっているところが並存することになり、国としては自立支援法の施行と同時に「放課後対策」部分を別事業(次に述べる日中一時支援)に一本化させようとした。しかし、現場からの強い反発を受け、結果的に並存状態は変わっていない。国としては、あくまで将来的に一本化させたいようだが、相当な抵抗が続くだろうから、果たしてうまくいくかどうかはわからない。
 国として、障害児に「これを使ってほしい」と思っているのは、おそらく「日中一時支援事業」である。自立支援法の中の地域生活支援事業のメニューのひとつ。過去にもどこかに書いたはずだが、地域生活支援事業というのは、複数の事業メニューに対して国から一定額の補助金が出され、その額をオーバーしたらあとは自治体で何とか工面しろ、という制度だ。利用がどんどん増えても、国の懐は痛まない。一方、自治体は支給決定すればするほど、負担が増える。ちなみに前述の「児童デイ」は、1/2額が国負担と決まっているから、利用が伸びれば国の負担はどんどん増える。子どもの数は減っていても、「障害児」とされる子どもの数は増えているし、働く親も増えている。国としては、全てを市町村にまかせていくことが最も安上がりに済ませられる方法なのである。
 ここまでは、知的障害児にとっての福祉として利用されるものだ。「発達障害」のみ、の子どもが利用することはほとんど無いだろう。一般に養護学校(特別支援学校)に通う子どもは、これらの障害福祉施策のほうに馴染みがあると思う。制度が無かった時代から「レスパイトサービス」などの呼び名で一時預かりをやっていた事業者は、多くがこのふたつのどちらかに移行しているだろうし、地元に信頼が置けてきちんと需給調整してもらえる事業所があれば、使う側としては万々歳である、はずだった。
 ところが、放課後対策の中でも「親の就労支援」という切り口で考えると、一般的な児童福祉施策の中でも用意されたものがある。それが言わずと知れた放課後児童クラブ(以下、「学童」)。学童は、障害者福祉の制度化よりもずっと以前から存在しているから、中には昔から障害児の受け入れをしてきたところもある。ただ、受け入れに積極的なところは希少であるし、人材はいないし、学校から学童までの移動を誰が担うかという問題もあるし、4年生とか6年生までしか通えないし、障害程度の重い子どもが通う場所としては大きな期待が寄せられてこなかった。また、学童は小地域ごとにできているので、地元の小学校に通う障害児は「同級生と同じ場所に」という自然な流れができるが、養護学校に通っていると縁が無い場所とも理解されやすい。さらに、学童で障害児を受け入れようとしても、それに伴って国からもらえる加算は、たったひとりの指導員を雇える金額にも遠く及ばない70万程度(ただし、今年度からほぼ倍増という話も聞いた)。人をしっかり配置しようとすれば、独自に市町村で予算確保しなければならない。
 そんなふうに障害児にとって十分な環境が整っているとは言いがたく、障害者福祉資源の充実が進めば必要性は減じられるかのように思える「学童」であるが、「知的障害」をもたない「発達障害」の子の親が働く場合、その充実は死活問題となる。自立支援法のサービスが使えないとなれば、残されるのは学童しかない。国は学童の利用児童数を10年後には今の3倍にしたいと言っているのだが、(これは待機児童を無くすという話とは全く次元の違う数字である。そもそも待機を出している学童自体が全体の1割ちょっとしかない。国が「どんどん福祉サービスの利用を増やしたい」と言っている事業を他に知らない。生活する上での就労の「必要」ということを考慮せず、子どものことなど何も考えていない)。発達障害児の親について考えていることはきっと逆である。学童は数十名の子どもをひとりの指導員で見ることを前提として制度ができあがっている。保育環境もプログラムもそのようにできている。障害福祉施策を発達障害にも手厚く拡充するか、学童の環境を向上させるか。いずれかの方策が必要だが、どちらがよいかは子どもによって違うに決まっている。
 学童の制度名は「放課後児童健全育成事業」。親の就労保障だけでなく、子どもの健全育成としての機能をもつとされている。すると「子どもの健全育成は、すべての子どもにとって大事だ」という話にもなる。これに、地域の犯罪が増えて子どもたちが危険でどうのこうのとかいう風説も後押しして、文部科学省が「放課後子ども教室」というのをはじめることになった。学校の空き教室や退職教員やボランティアなど使って、子どもの遊び場や勉強の場を提供していこう、というものである。国の予算的には学童よりはるかに小額。そして、内容的にも未成熟。障害児の受け入れ実績もほとんど無いだろう。しかし、国としては、学童をこちらに一本化しようという方針でいる。もちろん、学童関係者からの反発は強い。(この事業については、過去にも少し書いた。 http://d.hatena.ne.jp/lessor/20080202/1201964365 参照)
 制度状況を簡単に説明すると、以上のとおり。地域によって、この4つの事業の整備状況や運用状況はひどく違うから、自分の立場から、どれがいいとか、悪いとかの判断は難しい。あらゆるタイプの障害の子どもに十分な環境を整えられる居場所というのは少ないから、この混沌ぶりを逆手にとって、それぞれが強みを活かして積極的に受け入れを進めていければ、と思いたいが、実情は甘くない。何もない地域だってたくさんある。質の低い支援に頼らざるを得ない地域だってある。
 また、無責任に「親がどんどん働けるのがよい」と言うのも慎重でありたい。学童での受け入れに5年以上関わってきたが、率直に言って、保護者や家族のネグレクトを助長している例があることは否定しがたい(あくまで一部ではあるが、他の支援と比べて学童は利用時間が群を抜いて長くなるので、非常に目立つ)。それでも、就労要件を満たしていれば、これは「サービス」であり、「権利」なのである。「就労要件」を満たすことは簡単で、どこかの会社にちょちょっと「毎日働いてます」という就労証明を書いてもらえればおしまい。それ以上の踏み込んだ調査なんてなされない。残念だが、就労要件を満たしていない家庭とわかっていながら、書面上は問題が無いためどうしようもなく、毎日子どもの支援をしてきたケースも複数ある。障害者福祉の一時預かりならば、急な利用依頼をして断られたりするようなこともあるだろうが、毎日利用の学童ではありえない。どんなことがあっても、支援が受けられて当然。優先的に人的資源がつぎこまれる。こんな便利なサービスは無いから、制度として周知が進むにつれ、就労状況に関わらず利用しようとしてさまざまな手段を講じる親は出てくる。何もわかっていない田舎の議員が動くこともしばしばだ。正義は行政のほうにあるのに、受け入れを求めて議会で担当課長を攻撃している某政党には苛立たずにいられなかった。健常児とのふれあいを求めて、子どもを入所させたがる親も続々と出てくるし、「働かなければ生活していけないお母さんが、他にどうすることもできずに学童に子どもを預ける」というイメージは単純すぎる。障害児の親にとって「就労証明」の意味は多様なのだ。家族への支援が「預けられた子どもの面倒をみること」に集中してしまえば、居場所への過大な要求は避けがたい。
 コスト面で言えば、自治体に過大な負担がかかることも事実である。金の話など知ったことじゃないと言うのは正しい。ただ、加配をひとり雇う人件費を考えたときに、現行の国の補助額は妥当なのかどうか。マンツーマンでの支援が必要な子どもが3人いて、それぞれが月曜から土曜まで毎日放課後18時まで利用したとすると、年間のべ4500時間以上にはなる。加配の時給を800円としても3人で年360万。学童の環境の中で発達障害児を快適に過ごしてもらえるだけの力量をもった人材が、こんな労働条件で雇えるはずもないから、実際はもっと必要だろう。どこかに事業委託などしたら、さらに金額ははねあがる。小さな自治体なら数百万単位、大きな自治体なら数千万単位で加配にかかる予算確保が必要だろう。国加算をオーバーした部分はどうするのか。就労要件の設定や親の働き方、子どもの預けられ方によっては、就労によって得られる親の収入よりも子どもの支援にかかる金額のほうが多くなってくるという奇妙な例さえ出てくる。
 障害について差別的で無知で、冷淡な保育資源がたくさんあることは間違いない。近隣にも、ここで実名あげて書いてやりたいぐらいにひどい受け入れ拒否にあった事例も知っている。ただ、「親の就労」に伴う障害児の福祉サービス利用というのは、こんな極めて複雑な情勢なのである。これに現場の「嫌々ながらの受け入れ」が加わると本当に悲惨である。たぶん圧倒的にそういうケースのほうが多い。そういうケースは無事入所できても、子どもが苦しむことになる。子どもが苦しんでいても、親として「働けさえすればそれでいい」という家庭が出てきたら? もうそこに子どもを救うものは誰もいない。記事の事例は、どうも現場は受け入れたいが行政が認めない、というパターンのようだから、その点では救いがある。

 ひさしぶりに長い文章を書いたら楽になれるだろうかと思ったが、全く関係なかった。ため息しか出ない。