泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ああもう腹が立つことが多すぎて、どうしたものか。

 行政的な「制度の論理」のようなものがあって、そこで支援者としての論理を貫き通そうとすれば、その制度の論理が破綻しているポイントを丹念に突いていくことしかないのだが、行政は「破綻しているからこそ、柔軟な運用のもとに支援を広げていけているのであって、きちんと整理をつければ、行政として支援できない人(および事業所)が出てくるのだ」と言い、「そうなってもいいのか」と突きつけてくる。まるで、こちらのほうが支援者として仕事を放棄しているかのように言われる。そして「お前らにとっても得策ではなかろう」と。これでは人質をとられているようなものだ。
 あまりに事態が複雑すぎて、ここでどんな観点からの正論をぶちあげたところで、何も状況は前に進まない。正義を叫ぶと傷口が広がる構造。もう担当課長の感情がどう動くかとか、そんなレベルの話。ソーシャルワークでもなければ、運動でも政治でもない。なんなんだ、この仕事は。
 そんな困難さの一方で、利用者家族は子どものことじゃなく、自分のことばかり。親の間での嫉みは、一面的な公平や平等を主張しながら、子どもの生活を脅かしていく。直接の矛先は親に向かっているから、みんなその波及が見えていない。想像力が足らないのは、罪だ。