泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

私たちはつながっている、けれど

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

 面白かった。
 アスペルガー症候群「当事者」の書いた書籍が増える中で、この本は「自分がいかに世界を体験しているか」を書くにとどまらず、多くの研究者によるものとは異なる自閉症観を提示するに至っている。著者の体験に根ざしているから、独特の言葉で表現されていることも多い。ただ、それは情報を処理するプロセスを丁寧に説明しようとして用いられているものがほとんどであり、読み手と断絶した印象は残らないだろう。「ゆっくりていねいにつながりたい」というサブタイトルのとおり、「スペクトラム」としての障害理解を促すものになっている。
 「スペクトラム」として当事者が障害を説明しようとすれば、他の障害や「健常」の人々による世界の体験を理解した上で比較していかねばならないわけで、その点で「定型発達学(健常学)」もクローズアップされることになる。アフォーダンスとか心理学関係の用語がちょくちょく出てくるあたりに、これから「発達障害自閉症)の障害学」のようなものを進めていくための起点のひとつが見えたりもする。心理学や脳科学の知見がそのまま障害学にとってかわることはないだろうが、全く無視するのも難しいんじゃないだろうか。社会に何ができるか、何が求められるか、を考えるためにも。
 当事者の書いたものを読むと、自閉症入門の類に記される障害特性の説明(たとえば「三つ組の障害」)が、いかに「外側」から障害理解に基づいているのかがわかる。専門家が「ポイントは3つ」と言っているものが、当事者によれば「そんなの全然3つじゃない」ということなのだから、これは重大事ではないか。とりわけ「感覚」について多くのページが割かれているあたりに、生活者としてのリアリティを感じる。環境のコントロールに日々悩まされる支援者として考えさせられることが多い。
 ただ、自分たちが関わっているのは、この状態にさらに「知的障害」が加わっているのだよなあと思うと、「スペクトラム」とはいえ、けっこうな距離を感じてしまうのもまた事実ではある。知的障害が加わると、著者と同じように「定型発達」との差異を理解して支援者と関わる、というのは、ぐっと難しくなるわけで。お互いがつながっていると思える瞬間はたくさんあるけれど、断片的に「わかりあえたような気がする」体験を繰り返しただけで「私たちは、いっしょだ」と思いたがることは、迷惑な支援者も生み出していく。支援者もまた「つながっている」と思えないことの孤独を恐れているのかもしれない。