泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ヘビーユーザー問題

 昨日で大きな山をひとつ越えた感じ。
 人探しを急がなければならない事態は回避できそう。しっかり情報収集できている保護者との話はスムーズだ。初対面にも関わらず、支援者との付き合い方がうまいというかなんというか。子どもに対する思いを交えつつ、自分なりのがんばりも示しつつ、必要なものを必要なだけきちんと主張。
 一方で行政に対してとてつもない時間数の支給申請をあげて担当者の逆鱗にふれたらしい保護者の情報など入ってきて、いったいこの違いはどこから来るのだろうかと。もちろんそれぞれに生活が違うのだから、利用時間数の単純な比較など意味はないし、今後の具体的な展開も全くわからないが、家を子どもが寝るだけの場所にするつもりだろうか。どこの事業所も需給調整能力が限界に達しており、深刻な事態を迎えているというのに(むろん事業所として不断の努力の必要性は理解している)。
 親が忙しい、働いている→親どうしのネットワークに入ろうとしない→事業所やサービスの現況についての情報が伝わらない→サービス利用が増加→利用を我慢している他の親たちからの厳しい視線、事業所からの暗黙の「使いすぎるなよ」的ムード→疎外感から「私だってがんばっているのに」という思いがさらに加速→さらにサービス利用が増加、というような悪循環。
 こうした循環を断ち切るチャンスはそれぞれにたくさんあるはずなのだが、そのチャンスをすべて活かせなかったとき、たいていは関係者全員が不幸になる。「こんなに使わなくても済むはずだ」と思い込みながら、サービスを提供し続ける事業所。そんな事業所の態度に不信感をあらわにしながら、サービスを使い続ける保護者。伸び続ける支給量に頭を抱える行政。そして、最大の犠牲者となるのは、間違いなく子どもである。
 子ども自身が言葉に出して「こんな生活、冗談じゃねえぞ」と言ってくれたら、どれほど支援者のすべきことは明確になるだろうか。幸いにして、うちはまだ上のような悲惨な事態に至った経験がない。しかし、その予備軍の姿がちらつき始めた気もしている。

(3/14追記)
 ブックマークコメントでBUNTENさんから「『親が忙しい、働いている→親どうしのネットワークに入ろうとしない』忙しくて入れない、気が回らない、という可能性は? 」というコメントをいただきました。それももちろんあります。地域差はあるかもしれませんが、このあたりの親の会は、平日の日中にしか開催しないのです。
 夜や週末にやろうとすれば、家族(父親、祖父母、きょうだい等)に子どもを任せることになります。祖父母には子どものことを頼みたくない。父親は子どもに好かれていない、あるいは子どものことがわかっていない。きょうだいには負担をかけたくない。だから、子どもが学校に行っている間に会合をする。これだと、当然、フルタイムで就労している保護者は参加できません。たかだか会議の時間設定と思われるかもしれませんが、これはものすごく貴重な機会を奪うのです。
 スクールバスのバス停で、他の保護者といっしょに子どもを待つわずかな時間さえ、親にとっては子育ての喜びや悩みを共有することのできる大事な時間であって、大きく生活を左右します。フルタイムで働く保護者にはこれも無理。親どうしの体験共有の場に居合わせる機会を欠く保護者は、着実に増えているように思います。
 ただ、「とにかく使いたいようにサービスが使えさえすれば困らない」と考えてしまえば、他の親たちと話す必要もなくなるので、あえて親の会に加わろうという意思もなくなります。その意味で言えば、親たちが運動をして作業所やその他のサービスを作り上げてきた時代と比べれば、支援の制度化が進んだことで、親たちの分断というか孤立の可能性は間違いなく進行したと思います。スクールバスの到着を車の中で待ち、他の親と話そうとしない人も増えました。それは運動体や他の親たちの論理に個人の生活が同調させられなくなったとも解釈できるので、良いとか悪いとかは一概に言えませんが、資源不足の中では支援の偏在を招くおそれがある、ということは指摘してよいのだろうと思います(だったらとにかく資源の量が増えればいいのか、というと、それにも違和感はあるのですが)。
 自分の経験から言うと、なぜか「低賃金のパートタイム」よりも「高賃金のフルタイム」の人のほうが「ややこしい」気がします。この分析は、けっこう複雑なものになりそうです。なんというか「高賃金フルタイム従業者のプライド」っていうのもある気がするのですよ。