泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「知的障害者」のケアをめぐって

中根成寿(2006)「家族ケアを構成する二つの資源―知的障害者家族におけるケアの特性から―」『立命館人間科学研究』第11号、137-146。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/hs/publication/files/ningen_11/11_137-146.pdf
 なんというか、有斐閣アルマとかで『はじめての知的障害者支援』とかいう本が出て、その中に「知的障害者ケアと家族」とかいう章があったら、こういう内容になるのかなと思うのだが、それはさておき。
 成人期以降の「ケア責任」が、それまでの「1本人、2家族、3社会」から「1本人、2社会、3家族」の順に以降しつつあると述べられ、そこに付された注2。

本人が第一番目に来ることに対しては「自分でできた方が本人にとって気が楽」であるという点から言える。介助者が完全な手足にはなれず、身体を伴った存在として介助場面には現れる(前田 2005)。同時に強調しておかねばならないのは「本人ができた方が楽」すなわち「本人ができるようになるのがよい」ではないことである。これはコストを無視した機能回復訓練への批判でもある(立岩 2002:55)。本人ができることと、介助者を使って本人が行為することは等価である。本人の努力を前提に社会が自らの障害性を反省してバリアフリー活動を進める、のではない。障害の社会モデルはそのことを言ってきたのであり、できるようになるためのコストを個人か社会のどちらが負担するか、に社会だと主張する立場のことである。

 「本人ができることと、介助者を使って本人が行為することが等価」というのは、本人の望む結果が得られるという1点においてのみ等価なのであって、知的障害の場合、「そのほうが楽」というだけでなく、「できる」という経験の積み重ねから得られる自信やそこから広がっていく生活(たとえば「働いて賃金を得られる喜び」)もあるわけなので、議論はより複雑になるだろう。
 そもそも本人ができるようになるのがよい、というのが、本人が気の進まない訓練を受ける、という方法と不可分であるわけじゃなく、「コストを社会が負担しながら、『本人が』できるようになるのがよい」というテーゼが成立しうる。ここが知的障害分野の難しいところで、コストを誰が負担すべきかを示しても、さらなる議論が求められていくのだと思う。そして、自分のような「支援者」が悩むのはまさにここからなのだ。支援者はすでに「社会」の一部として責任を負うことを出発点としているのだから。 

構造的資源は、社会サービスによる代替が比較的容易なのに対して、編成的資源は「時間」や「アイデンティティ」という、ケアするものとされるものの関係性に基づいた相互行為によって供給されるため、社会サービスによる代替が難しい。現在、公的介護保険制度や支援費制度により、高齢者や障害者のケアに社会サービスが提供されているが、それらの多くは構造的資源であり、編成的資源のほとんどに対しての社会化はまだ不十分である(例えばケアマネジメントや権利擁護制度など)。これは構造的資源が労働力の人称を問わない「非人称的資源」であるのに対して、編成的資源は、所有格をもった「人称的資源」であるということに要因が求められる。所有格をもつが故に、援助には個別性や関係性が求められ、所有格をもたない構造的資源に比較してサービスの構築が難しいのである。(143-144)

ええええええ? ご本人とほんの少しとはいえ面識があるがゆえに言わずにいられないのだが、本気で言ってますか、中根さん? いくら「比較的」と言っても、ケアサービスの仕事に対する理解としてはあまりに荒っぽいし、サービスを使う側だって、このような整理はおそらく否定すると思うけれど、どうか。