泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[研究?]知的障害と障害学

障害学研究1 (障害学研究)

障害学研究1 (障害学研究)

 石川×立岩対談などずいぶん前に読んで感想をここに書きかけてうっかり消してしまい、そのままになっていた。案の定、今になってみると何を書こうとしていたのか思い出せない。
 ひとまずは書き始めて、書きながら思い出そう。特集「障害学とはなにか」の付録「障害学FAQ」について。書いているのは杉野昭博さん。

Q 障害学は知的障害問題に関心がないのではないか?
A 知的インペアメントをもつ人が経験する障壁の研究はたしかに遅れている分野の1つでしょう。しかし、障害学が社会の「ディスエイブリズム(障害者差別主義)」や「障害の有無によるダブル・スタンダード」を指摘して批判することは、知的障害問題の解明にも寄与するものだと思います。たとえば、知的障害者の「自己決定」について「支援された自己決定」といった言い方がされますが、すべての人々の「自己決定」において相談・誘導・助言・指導といった「支援」は、マスメディアや家族・友人を通じて日常的におこなわれています。むしろ知的障害者のディスアビリティとは、そうした「支援」が日常的には手に入らないということだというのが障害学の見方です。(19ページ)

 短いQ&Aに過剰な期待はすべきでないだろうが、違和感がある。「…というのが障害学の見方です」といえるほど、学会内でコンセンサスがあるのかどうかわからないが、ここでイメージされている知的障害者像には偏りがないか。もし、このとおりであるなら、知的障害者の社会的な支援というのは単純な話である。まさに「相談・誘導・助言・指導」を行える支援システムを築けばよいということだ。それはそれとして必要であるが、単純化されすぎている。この表現には、支援者と知的障害者の二者関係しか見出せない。社会の側の責任はただ「支援システムを作ること」にしかならない。
 同誌に所収の石川×立岩対談では、立岩さんがこう書いて(話して)いる。

 たとえば身体の異なりがあり、その身体の見え方が違う。外見としての姿もそうだし動作とかが変わっているということがある。こういうことはできるできないとたぶんちょっと別のものとして存在していて、それはそれとして大きな問題というか、出来事ですよね。(41ページ)

さらに、

 もう1つ加えれば、これは精神障害を考えるうえでどうしても出てきてしまって、それが非常に難しい問題であるがゆえに、学者は誰も手をつけないという感じですが、ある種の危険とか危害の話です。ある意味で、身体障害をめぐる議論は平和な話であって、基本的にはものがないから取ってくるという話だと思う。だけど、そういうところだけじゃなく出てくる問題に、たとえば精神障害というのはからめ取られてきたというか、それに付き合わざるを得なかった。それをどう考えるかということについて、たとえば障害学でも何でもいいんですけど、きちんと考えたことがあるかというと、たぶんない。(41〜42ページ)

 一つ目の引用は身体障害を想定して書かれているが、「身体」を「行為(行動)」に置き換えれば知的障害にも当てはまる。二つ目の引用は精神障害について書いているが、自傷他害などを考えるとそのまま知的障害にも当てはまる場合がある。危害とまでいかなくても、少し視点を変えて共生するための条件の問題と考えれば知的障害分野でも十分に悩まれてきた問題である。
 知的障害を「できる/できない」(「わかる/わからない」)の区別によってのみアイデンティファイできないと思えるのは、どのような部分か。
 例えば、このような説明を聞いたことがある。
 知的障害のことをよく知らない人は、「知的障害なんだから(体に不自由はないのだから)、自分で食べられるだろう」「それほど大した支援は必要ないのではないか」と考える。しかし、問題は「食べられないこと」ではなく、「隣の人のごはんを食べてしまうこと」にあるのだ、と。
 この話はたしか知的障害者の保護者たちが聞く場で「行政の知的障害への無理解」を嘆くためになされたが、周囲が大きくうなづいていたので印象に残っている。たとえ話であるが、他のあらゆる生活場面を考えてみても同じような例をあげるのは容易だろう。
 もちろん一例をあげているわけで、すべての知的障害者に言える話ではないが、少なくとも「できる/できない」の問題とは異なる論点があることは言える。隣の人のごはんを食べてしまうこと自体は、自分のものと他者のものを区別すべきというルールがわからないことによる。それは「できる/できない」の問題の範囲にほぼおさまるであろう。しかし、ごはんを食べられた「隣の人」はどう反応するだろうか。ここでは「できない」ことが、社会規範と衝突し、軋轢を生んでいる。
 もっと言えば、たとえば自閉症者などに見られる「こだわり」「常同」行動などは、わかる、わからない、という問題とも少し違うように思う。CMのフレーズを繰り返し言い続けている、とか、部屋の中でずっとくるくる回っている、というのは、本人にとっての心地よさであったり、安心であったりする。「健常者」とは異なる感覚の敏感さはしばしば指摘されるが、これらの差からくる行動も社会的には受け入れられないことが多い。
 近年になって、知的障害に加えて「発達障害」という概念がクローズアップされるようになっているが、メンタルな部分の障害の特性が十分に社会に伝わっておらず、社会サービスにも十分に反映されてこなかったことの証拠だろう。「できる/できない」ことに起因する問題だけを見ているのでは、よい支援ができない。
 本人が決定した行動が、社会的な規範と衝突して「問題行動」と呼ばれる。しかし、本人はなぜ問題とされるのかわからない。そこで支援者が規範を「わかりやすく」伝えることで本人が納得するのであれば、それで問題は解決するかもしれない(おそらく迷惑をかけてしまった周囲にたくさん謝ったり説明したりしながら)。しかし、社会的な規範と衝突するからといって、いつでも全く認められず制止すべきとは限らない。すると、どこまでを認めてよいか、支援者は悩む。
 そもそもこの社会には自明とされているが、その根拠を説明できない規範がたくさんある。あるいはその根拠を理解するために、かなり複雑な説明を要するものがたくさんある。健常者によって作り出された諸制度が知的障害者によって生活のあらゆる場面で相対化されうる。彼ら彼女らの行動が誰にも直接的な迷惑はかけていないにもかかわらず(何をもって直接とか間接とか言うのかというのも難しい問題だけれど)、社会的にみれば逸脱行動と受け取られる場合、この「自己決定」をどう考え、どのような支援が必要とされるのか。「わかりにくい」規範の側が問われる必要はないのだろうか。
 社会、家族、支援者の規範の自明性を切り崩すという点で、障害学の研究対象とすることは非常に有意義だと思うのだが。誰かにきちんとやってほしい。

田中耕一郎(2005)「障害者運動と新しい社会運動」論、『障害者研究』1、88−110。
 価値的志向が強い新しい社会運動論では障害者運動の分析は十分にできない、という。しかし、文化追求と政治追及の分裂と葛藤が「運動の価値の源泉」と言うならば、他分野での新しい社会運動が文化追求において、どんな方法論を用いてどんな結果に至ったのかについても触れてほしかった。環境運動やフェミニズム運動でも「文化」と「政治」は二大テーマであろうし。
 この障害者運動における文化と政治の葛藤については、石川准によるいい論文があったはずなのだが、部屋のどこかに埋もれて見つからない…。