泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[障害者支援]送り迎えは家族介護か

 dojinさんの日記にnami-a(http://d.hatena.ne.jp/nami-a/)さんが寄せたコメントに批判の嵐が。
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060714
 自分自身も家族の送り迎えを家族介護と位置づけるべきかどうか、についてコメントを求められているので、何か書こうと思ってずっとコメント欄のやりとりを読み返しているのだが、自分には論点がよくわからなくなりつつある。
 おそらくもともとは単純な話だったのだと思う。nami-aさんとしては、「リベラル左派は頭でっかちで現場を知らないやつが多い」という自らの経験あるいは信念に基づき、送り迎えを家族『介護』と表現することはあまり自分の身近で聞いたことがない。きっとこいつも現場を知らずに文献や伝聞による知識だけでものを言っているはずだ。よーし叩いてやれ」と考えたのだろう。これは致命的な判断ミスだった。
 dojinさんが「自分は現場をもっている」と返答した時点で、このやりとりは一度決着したも同じ。外野から見ていると、nami-aさん、やっちまいましたね、という感じ。しかし「リベラル左派」の性質を乱暴に一般化した物言いには多くの人が不満を感じていたので、反発はおさまらない。その後の展開は自称の保守右派の行政職員が自らの現場のローカルな見地をあたかも数多の「現場」の常識であるかのように書いてしまったことへの批判に向かっている。たぶん、これ以上nami-aさんをつっついても、建設的な議論にはならず、「反省をうながす」だけだろう。もちろんそれはとても大事なことだけれど。 
 そんなわけで自分に求められているのは「送り迎え」と「家族介護」について書くことだ。(忘れていた仕事を思い出したので、いったん中断。つづく)
(7月17日 上からのつづき)
 知的障害をもつ人の暮らしについてはそれほど世間に知られているとも思えないので、「送り迎え」のことについて基本的な事柄を書いてみる。たとえば養護学校の子ども。寄宿舎があるようなところはともかく、自宅から学校に通う子どもはどうやって学校に通っているか。それは「自分の力で学校まで通う(このあたりでは「自主通学」と呼んでいる)」あるいは「スクールバスを使う」。しかし、スクールバスのバスが全ての子どもの自宅まで迎えに行けるわけではない。どうするか。ここでまた二つに分かれる。「スクールバスのバス停まで自分の力で行く」または「スクールバスのバス停まで家族が送る」。もちろん帰りの迎えも同様だ。
 自分の地元自治体に暮らす養護学校生は25名。そのうち自分の力で学校に通っている(スクールバスを使っていない)子どもは、現在ゼロ。もともと自主通学は高等部にならないと学校から認められないので、数が少ない。昨年度は2人いたが、卒業してしまった。
 また、スクールバス利用から自主通学に移行するためには、本人が公共交通機関をきちんと利用できるかどうか、どこかで立ち止まって動かなくなったりしないか、ちゃんと安全な通学ルートを通っていけるかどうか、何かトラブルがあったときに対処できるか、など多くのステップをクリアしなければいけない。多くの場合、学校と相談しながら、家族がいっしょに通学してみたり、子どもの様子を遠くからそっと尾行したりしながら、トレーニングを積む。毎日そんなトレーニングにつきあわなければならない保護者は大変だが、制度的に使える資源がないため苦労する(うちは勝手に独自のサービス作ってやっている)。
 次にスクールバスに乗る場合だが、自宅とバス停を徒歩で安全に往復できるかどうか、がポイントになる。これはこの地域だとおそらく3人ができている。では、あとの22人はどうしているのか。すべて保護者がバス停まで送り迎えをしている。この送り迎えは在学中、学校のある日は一日も欠かすことなく続く(子どもによっては、毎日学校と自宅を直接自家用車で送り迎えする例もある)。小学部1年だろうが、高等部3年だろうが、同じ。だから、日中に親の会の会合などもっていても、14時半ぐらいになると、解散せざるをえない。水曜日は授業が13時30分に終わるため、昼過ぎにはみんな時計を気にしはじめる。毎日のことなので、大変な負担である。共働きや母子家庭の場合、保護者の就労先が遠かったり、出勤時間が朝早かったりすると、朝もバスに間に合わない。その場合、バスの運行ルートを確認して、わざわざ家から遠く離れたバス停まで子どもを送ったりする。それさえもできない事情があるとどうなるか。実際にそうした事例は出てきているのだが、もはや事業所や自治体の意地で対応することになる。
 このあたりだと、帰りの迎えがどうしてもできないことがあらかじめわかっている場合はショートステイを事業所に依頼して、学校まで車で迎えに行ってもらうという手はある(この場合、送迎料金がとられる)。同じくガイドヘルプを依頼して、学校まで迎えに行ってもらい、そのまま子どもはどこかに外出するというパターンもある。しかし、学校と自宅の間を直接行き来することを認めるサービスは国レベルでは無い。こうした事情は養護学校を卒業して、通所施設等に通うようになってもいっしょである。
 さて、送り迎えは家族介護か、という話に戻りたいが、知的障害分野では送り迎えに限らずそもそも「介護」という用語をあまり使わない。子どもの保護者と話していても「うちの子の介護が…」というような発言は聞かれない。これは単純に「介護」という言葉が、多くの場合に身体的な介護を想起させるからのようである。「介護」がしばしば「介助」と言い換えられるような深い理由ではないが、心情的にはわかる。ちなみに自分自身はと言えば、もっぱら「支援」とか「ケア」とか使っているように思う。一方で制度的には、居宅介護、外出介護など、「介護」のオンパレードである。請求事務のときだけ「介護」の二文字を頻繁に見る。高齢者の介護問題が先にクローズアップされたのに加え、同じ制度を普遍的に使えるように設計しようというのが今の政策の流れでもあるから、それもまあわかる。
 そんなわけで、現場レベルでの用法はまちまちだし、社会福祉研究でも「介護」の定義に統一的な見解はない。だから、送り迎えは「家族介護」かと聞かれると、答えるのは難しい。ただ、自分自身がdojinさんの日記を最初に読んだとき、全く違和感は感じなかった。自分の中で「家族介護」は「家族によるケア」と自然に置き換えられたし、歴史的に見れば「家族介護」という語句によって明るみに出された問題は数多い。知的障害分野においても「家族介護」と言うことで、高齢者や身体障害者と同様の構造の中に問題があるのだと示すことにもなる。そして何より、上述したように「学校や通所先やバス停までの送り迎えというのが、家族にとって大変な負担である」ことは間違いない。
 「家族介護」という言葉を選択することの問題を強いてあげれば、知的障害をもつ人々や家族にとって必要な支援から相談や助言といった部分を差し引いたときに、狭義の「介護」という言葉には汲み取りきれない種類の支援がたくさん残りそうだ、ということだろうか。その意味で、「介護」という言葉は少し慎重に使った方がよいのかな、と。期待された答えではないかもしれないけれど、こんなところでご容赦ください。