泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[読書]就労支援とSW

 最後まで読んで、著者の意図するところはわかった。「トライアングル・エコシステム視座」なる奇妙な図式を作り出した理由は、利用者と援助者の関係に注目するだけではダメで、「関係者」も含めて利用者をめぐる環境を考えていかなければいけないということと、利用者と援助者の関係は決して「援助する/される」という一方的な関係ではないということを示したかったからであった。
 なんでそのような当たり前のことをいうのに、これほどまでの手間(長期にわたる参与観察)をかけてデータを処理するのか。その一方で、なぜたったひとつの授産施設からのデータ収集でしかないものを一般化できるのか。自分には全く理解ができない。著者の研究成果に基づき巻末に提示された「知的障害者授産施設における就労支援自己評価表」の評価項目におけるカテゴリーには「花を介しての自己実現」「花を前提とした関係」「実現しない退所要求」。授産施設の作業内容の多様性や入所/通所の区別について、ご存知ないわけではあるまい。そもそも「実態」として行われている様々なコミュニケーションをカテゴライズしたものを、そのまま「評価項目」のベースにすること自体ありえない。
 著者にとってソーシャルワークとは何であるのかもよくわからない。知的障害をもつ人々が授産施設で働くことを支援するのがソーシャルワークだということであろうか。*1授産施設の職員はソーシャルワーカーで、日々の授産作業中のコミュニケーションも、利用者に合った仕事を準備することもソーシャルワークの一部分だろうか。だとすれば、一般企業で上司が部下に対してやっている仕事と何が違うだろうか。相手が「知的障害者」だから違うのか。だとすれば、ソーシャルワークとそうでないものを分かつ基準は相手の属性でしかないということになるのか。そんなことにはなるまい。序盤でエンパワメントを強調しているが、「知的障害があるから」エンパワメントすべきだというなら、その判断自体が彼ら彼女らの可能性を不当に軽くみている。著者の「視座」から考えると「援助者・利用者」と「関係者」との関係を重視したいのかと思いきや、それは他の関係と比べても特別な位置には置かれていない。
 さらには、仮に授産施設での支援業務をソーシャルワークと認めたとしても、どういった状況をワーカーとして「望ましい」と価値判断したいのか、全く説明してくれない。一般就労への移行を目指している事例を扱っているわけでもない。多様であるはずの人々はすべて「利用者」とか「彼ら」という一言で括られ続けているので、著者が暗黙に前提している「たったひとつの目標」があるのかもしれない。それぞれ心身の状態には違いがあり、この施設内での目標も異なるだろうに。
 言葉の使い方にもよくわからないところが多く、頻繁に使われる「文脈」という言葉については、最後まで意味がわからない。「就労支援サービスにおいて、援助者と関係者の関係にみられる文脈は自立生活意識の自覚化として理解された」って、日本語になっているのだろうか。グラウンデッドセオリーをするなら、概念の使い方にはもっと敏感になってもらわないと困る。
 とにかく読んでいて苛立つばかり。この1週間ぐらい、ずっとカリカリしているような気がする。さっきからノドも痛んできた。明日は少しゆっくり寝ていられるので、少し頭も体もクールダウンさせよう。

*1:著者は、第1章で「知的障害者領域のソーシャルワークは、知的障害者を生活者として捉え、知的障害をもつことで発生する生活課題の内容やニーズを整理し、関係機関などと協働して、生活課題の解決・緩和、ニーズの充足をはかるための支援の取り組み」とする久保美紀の定義を引用しているが、その後、特にこの定義にこだわって論を進めている様子はない。この定義によるならば関係機関との「協働」が、ソーシャルワークの方法論としての同一性を示すポイントということになる。