泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

連携

 学童保育所で養護学校生と関わっている指導員(加配職員含む)が、「学校での様子を見てみたい」「先生からお話を聞きたい」と要望したため、養護学校にお願いして特別に授業参観をさせてもらった。さらに参観後は、子どもたちについての丁寧な説明をそれぞれの担任からしてもらえた。どこも養護学校って、こんなに柔軟なのだろうか。公式の依頼文書など何も出していないし、電話でのお願いだけで話がとんとん進む。気持ちよく誠実な対応にいつもながら感謝(学校の実名公表したいくらいだ)。
 養護学校の教員には、いろんな人がいる。中には熱意のない人もいるが、多くの人はそれぞれの使命感をもって仕事に臨んでいると思う。ただ、この使命感が自分たちのような地域生活支援の使命感と合致するかと言えば、必ずしもそうではない。「学校」には社会的に期待されている主要な機能というものがある。養護学校ならば、すぐに思いつくのは「発達保障」だろうか。無制限な機能拡大を学校に求めるのは酷であるし、適切でもないだろう。
 それだけに、自分たちの使命に理解を示してくれる教員と出会えたときの喜びはひとしおである。地域生活支援の使命を一言で表すのは難しいけれど(そして「使命」という表現もあいまいすぎるけれど)、支援の必要性を生活全体の中で捉えることは大事にしているつもりだ。自分の行なっている支援が順調に進んでいても、そのひずみが他で生じていたら、よしとは言えない。
 今日お話を聞かせてもらった教員は、その点で十分な理解があった。学校での子どもと家庭での子どもの違いを冷静に受け止め、学校が子どもに強いているかもしれない負担に敏感だった。そして、障害児と関わる者なら皆が共有できそうな使命を示しながら話をすることで、「同志」として連携できる素地を作ってくれた。意識的にやっているのか、自然にそれができてしまう人なのかはわからない。いずれにせよ、他者と信頼関係をつくるためのポイントをきっちりと抑えた話に、あいだを取り持った者として感激。
 連携を求められる相手が、こんな人ばっかりだったら楽なのだけれど。