泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

学会誌、届く

障害学研究9

障害学研究9

 参加者のつぶやきから雰囲気や内容を推測することしかできていなかった障害学会第9回大会シンポジウムの様子をようやく知る。
 もし「当事者による語り」後に檀上でコメント求められる立場だったら、はたして何を話せばよいのやらと逃げ出したくなりそうなムードが活字からも伝わる。知的障害の当事者による語りを聞くことはシンポジウムでなくてもできるし、むしろそちらのほうが好ましい環境で十分に時間をかけられると思う(それでも語れない当事者はたくさんいるし、言葉をもっていても語りつくすのは非常に難しい)。「当事者」にこだわる障害学会らしい企画とは思うけれど、当事者と関わりをもつ人たちが「知的障害にとっての社会モデル」について議論できたほうが、「障害の社会モデル」について面白い論点は出てきたのではないか。田中さんの報告に基づく議論はわずかなコメントのやりとりにとどまっており、とてももったいない。
 「知的障害」を経験するときの「痛み」はいかにして解消可能か、と考えるとき、「そもそも『知的障害』は人と人の関係がないところには存在しえないので『知的障害=社会的なもの』なのだ」という主張が生まれ、ここからさらに「『知的障害』の『痛み』は社会的に解消可能である」という立場と「社会的なものであってもそのすべてを社会的に解消するのは難しいのではないか」という立場が出てくる。
 一方で「知的障害=社会的なもの」という理解を100%受け入れてよいかどうかも、まだ疑わしい。個人的な見解として書けば、さまざまな当事者と関わっていると「関係」の中でなくても現れる困難さはあると感じる。たとえば「感覚」とか「運動」とか。認知とか記憶だって、他者との比較の中でしか「痛み」にならない、と言えるのかどうか。この背景には、そもそも「知的障害」って、どのようなインペアメントを指しているのか、という線引きの問題もある。「社会的なもの」に限定して「知的障害」と呼ぼう、という話ならば理解できなくもないが、それはもはやトートロジーであり、議論の前提が変わってくる。多様性をもつ「知的障害者」に対する具体的な支援のあり方を導きたいならば、現実的でもない。
 「知的障害」というインペアメントを問うのか、「知的障害」の経験による「痛み」を問うのか、によって論点も変わる。また「社会的」という表現も、何らかの社会的な要素によって規定されているという意味と、社会的に構築されているという意味では、ずいぶん内容が違う。
 理論的な水準において、もっと丁寧な議論が進むことで、社会モデルに基づく(あるいは社会モデルに基づかない)支援のあり方が見えてきたらよいと思う。