泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

3分で読める超訳「知的障害の障害学」最前線

 この土日は「障害学会」というのがある。仕事で行けないけれど。
障害学会第9回(神戸)大会
http://www2.kobe-u.ac.jp/~zda/jsds-kobe.html
 研究者以外にとって「学会」とはやけに難しそうな響きをもつものである。しかし、少なからず「当事者」のための学問であろうとしてきた「障害学」がそのように理解されてしまうのはもったいない。
 しかも、日曜に行われる学会シンポジウムのタイトルは「個人的な経験と障害の社会モデル:知的障害に焦点を当てて」だ。「知的障害」についての議論はさまざまな領域でなされてきたが、「障害学」は少し違った観点を持っている。だから、前例のないような議論が生まれる可能性もあるし、「面白い」と思ってもらえる人だっているかもしれない。
 そんなわけで、これまで「知的障害の障害学」に触れたことがない人向けに、今回の学会シンポジウムで最初の「問題提起」を務める田中耕一郎さんの発表原稿(上のリンク先で全文が事前公開されている)を「超訳」してみた(原文も日本語であり、とにかくわかりやすくする、という意味で)。もとの原稿も決して難しすぎるものではないが、こちらは3分あれば読める。田中さんは、このテーマを中心に取り組んでいる数少ない研究者である。興味をもたれた方は、原文をどうぞ。
 「知的障害の障害学」最前線、と言って差し支えないと思う(中でも「知的障害と社会モデル」というテーマについて)。以下、超訳

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 障害学は「『障害』は社会のほうにあるのだ」と言ってきた。それは、障害者にとって生きづらい社会を変えていくための戦略として重要だったし、今もなお価値をもっている。
 しかし、「『障害』は社会のほうにある」という主張を批判する人たちがいた。
 その人たちは、
「たしかに『障害』は社会の側にもあるのだけれど、そればかり強調すると、ひとりひとりが自分の中にあると感じている「障害」やそれに基づく日々の体験を語りづらくなってしまう」
「『個人的なことのほうは放っておけばいい』と考えられるべきではない」
 などと言った。
 また、
「『社会のせいで生きづらい』というだけなら、それはいろいろな立場の人にもあてはまるので、特に『障害者』が抱える生きづらさに注目できない」
「障害によっては、社会のほうにあるのか、個人の中にあるのかがはっきりさせづらいようなものもあり、その人たちのことがあまり話題にされなくなってしまう」
 などとも言った。
 こうした批判に対して、「心身の機能の『違い』を、個人の中にある『障害』としてとらえがちだけれど、実はどんな『違い』を『障害』として考えるのかっていうのは、社会によって決められるものなので、やっぱり『障害』っていうのは社会の中にあるものなんだ」と反論する人がいた。
 この考えからすると「『知的障害』は歴史の中で生みだされてきたんだ」と言える。「『知的障害』は、社会の側にとって都合のよいような形で生み出されてきたかもしれない」と反省できたら、もっと良い関わり方や支援の方法が考えられるかもしれない。
 これはこれで良い考えなのだけれど、どんな心身の機能の『違い』が社会によって『障害』扱いされるかを明らかにしても、心身の機能の違いによって本人が感じている「しんどさ(痛み)」は結局なくならないし、それを無視するのはよくないのではないだろうか。
 もちろん、世間からの「障害」理解が変わることで「しんどい」と感じなくなることもあるだろう。でも、どんなふうに世間からの理解が変わったって無くならない「しんどさ」があるはずだ。
 確かに、知的障害者が「これぐらいのことはみんなわかるだろう」という世の中の基準によって「なんでこの程度のことがわからないんだ」と評価されて傷つくのだとしたら、世の中の基準のほうを改めれば「しんどさ」は解消できるかもしれない。行動障害の「しんどさ」だって、「環境」のほうを変えることで無くすことができるかもしれない。
 それでも、複雑でわかりにくい社会について、(特に重度の)知的障害をもつ人自身が「この社会のここがおかしいよ」「もっとこんなふうに変えてくれたらわかりやすいよ」と理解したり、申し立てたりることは難しい。そもそも重度知的障害というのは、世界を「自分の力で新たに捉えなおす」ことが難しい障害であるのだ。
 はたして「社会」を変えることで、この「しんどさ」は解消できるのだろうか。私たちはこの「しんどさ」にどう向き合えばいいだろうか。支援の方法論とからめて考えれば、「知的障害」「自閉症」などにとって生きやすい世界のあり方を、あれこれ試行錯誤しながら推測していくことはできるだろうし、自閉症支援で有名なTEACCHプログラムなどはそのようなものであるはずだ。
 知的障害の「しんどさ」を同じように体験することは難しい。人々は知的障害者と立場を置き換えて考えることができない不安から、知的障害者をコントロールしたり、存在を否定したりする。しかし、自分にとってわかりやすい形で知的障害者の「しんどさ」の中身を勝手に決めつけてしまうのは「支配」である。
 では、「しんどさ」にどう向き合えばいいか。そのひとつのやり方に、知的障害者の「語り」を聞くこと、がある。それを聞くのはとても難しいが「どうして『しんどい』と言えないのか」「『しんどさ』を『しんどさ』として感じるために何が必要か」を問うのは大切だし、これまで障害学は「当事者の経験」を基盤に理論を作り、運動に活かしてきた。「知的障害者」の語りはどんなふうにすれば「理論」「運動」「支援」などに活かせるのか、を考えるとよいと思う。ただし、「語る」には能力が必要だし、「語られたこと」が「しんどさ」そのものを表しているとは言えない。だから「聴き方」や「語るための手立て」を考えなければならない。
 支援者は、知的障害者の代わりに「語る」ことはできないが、「わからない」と言って終わらせることもできない。ただ、知的障害者と共にありながら「しんどさ」を共有しようとする(が、決して完全には果たされることはないことも痛感する)経験を積んだ支援者の「語り」には、価値があるのではないだろうか。とはいえ、支援者が「しんどさ」を語ろうとするときにも「うまく伝えられるか」「周囲がそれを理解できるか」という問題は生じるだろう。
 最後に、ここまで書いてきたことを「『障害』は社会のほうにあるのだ」という考え方と関連づけてもう一度考えたい。
 まず、知的障害の「しんどさ」はこれまで語られてこなかったし、社会の側にとって都合のよいように解釈されてきた可能性がある。だから、これまで表に出されてこなかった知的障害者の「しんどさ」を明るみに出すことは、「『障害』は社会のほうにあるのだ」と言う主張の目指すところと重なる。
 次に、知的障害者の抱える「しんどさ」の中に、社会が変わることによっても無くならないものがあったとしても、支援者がその「しんどさ」を分かち合える可能性があるならば、「『障害』は社会のほうにある」という考えにとって、それは無視できないものになるのではないか。
 そして、「『障害』は社会のほうにある」という主張は、これまで社会を批判してきたが、障害者の「しんどさ」を分かち合おうとする現場について語ってこなかった。「しんどさ」を分かち合おうとする中で見つかってくる(かもしれない)「支援において大切にすべきもの」を通じて、社会を批判していくべきだろう。すでにこれらの「しんどさ」を研究対象として扱ってきた現象学や医療人類学などからも学ぶ必要がある。

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