泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「リード」をつけられて歩く子どもをはじめて見た

 先週末のことである。これまで子どもと関わる仕事を続けてきて、街なかでも子どもの姿にはよく注意を向けてきたつもりだったが、「リード」をつけられて歩く子どもをはじめて見た。
 リードとか「ハーネス」とか言うらしい。Amazonで調べてみると、幼児用にけっこうたくさんの商品が出てくるから、需要は高いのだろう。「迷子ひも」なんて呼び名もあるようだ。リュックサックにヒモがついたようなものもある。自分が見たのは、リュックなどがついていないために、もう本当に「ヒモでつながれている」感じが目立つものだった。ヒモ部分も1メートルぐらいはあり、親子の身長差を補うというレベルでもない。
 そのようなものを使うことがあるらしい、と聞いたことはあった。ネット上で調べると、実際に活用している親によるコメントも簡単に見つけられた。その内容はと言えば、想像通りで、「虐待だと説教された」「嫌味を言われた」など、周囲から否定的に見られることへの嘆きである。
 では、自分はどう思ったのか。正直に言って、まずびっくりした。それからしばらくは同じ空間に居合わせたので、子どもの様子も観察したが、今回の場合については必要性がぴんとこなかった。しかし、総合的な判断ができるほどの情報がそろうわけでもなく、ヒモがなかったらどうなる子なのかもわからない。これまでに親がどんな経験をしてきたのかもわからない。だから、必要だとか不要だとか言うつもりはない。
 それから考えたのは、その子にヒモが必要かどうか、というよりも、「なぜ我々はヒモにつながれている子ども(とその親)に対して、強い違和感を覚えてしまうのか」についてである。
 大人の手からヒモでつながれた子どもを見て、みんな直観的に「犬やペットのようだ」と思う。それは確かに他の喩えが浮かばないぐらいの光景だ。動き回ろうとした子どもは、ヒモの長さを超えて動けない。ヒモを片手に安心して誰かと話す親の姿は、「飼い主」を想起させてしまう。
 犬や猫やペットを育てることと、人の子どもを育てることを分かつものとはいったい何だろうか。人間の知的機能のほうが一般には高度たりうるとしても、発達には個人差があり、とりわけ行動面での発達の凸凹は幼児期の子育てにずいぶん工夫を求めることになる。「外出時に目が離すと危険である」ことへの合理的な手立てとして、「ずっと手をつないで自由に動けないようにしておく」ことは責められないのに、「ヒモでつなぐ」ことには批判的なまなざしが向けられる。そして、罪悪感までも湧く。
 人間の子を育てる原理と、動物をペットとして育てる原理はどう違うか。好ましいことをすれば褒められ、好ましくないことをすれば叱られる、という方法は広く共有されている。相手の行動を導くために様々な種類の報酬と罰が組み合わされる点では大差がない。好ましい行動をとったときにほめられたり好きなおやつが与えられたりするのも、テストでよい点をとったご褒美に何か買ってもらえるのも原理的には同じだ。「動物みたいに」という表現はとても印象がよろしくない。しかし、「みたいに」の意味が行動の原理レベルを指しているならば、それは一般的に人間の子どもにも(特に乳幼児期には)行われていることでもある。
 すると、原理レベルというよりも具体的な方法のレベルで選ばれている「文化」の違いが違和感のもとなのではないかと思う。子どもの行動を大人にとって都合よく制御するためにどんな方法を採用するのが「人間的」であるのかは、その方法が合理的であるかどうかよりも「文化」として許容される方法であるかどうかを問うている。しかし、それを普遍的な原理から異なるように人は錯覚しやすい。「人間扱いしていない」というように。
 さて、どうしてこんなことをわざわざ書こうと思ったのかと言えば、他人の子育てについて「心構え」ではなく「方法」のレベルに照準して理解しないと、多様化する子ども、多様化する親、多様化する子育ての中で、無駄な対立を生みかねないと思えたからだ。知的障害や発達障害をもつ子どもの子育ては、原理的には多くの子育てと違わないが、方法レベルで違う「文化」を示す部分も多い。言葉で話しかけずにカードでコミュニケーションをとることもあるし、日常的に大きなヘッドホンみたいなものを子どもの両耳にあてがっておくこともあるし、子どもが集中できる環境を作ろうとして、世間の目からは特異に見える部屋や机ができてしまったりもする。これらは原理的に考えれば、一般的な子育てと何も変わらない。が、親はもちろん、支援者の中にさえも違和感を覚えて、より一般に浸透している文化に合わせようとする者が出てくる。だから「文化の違い」を貫くことにどんな問題があるのか、と主張することがもっと必要なのだろうと思う。
 では「文化」ならば、どんな方法でもよい、と言えるのだろうか。原理的に妥当で方法として合理的ならば、いつでもリードをつけて子どもと歩けばよいだろうか。ここで我々はそれでも「手をつないで歩けるようになるならば、そのほうがいい」と思えてしまう。この気持ちがどこから来るのか、いまだに自分自身にもわからない。
 対人援助の世界で言うところの「当たり前の暮らし」は、こうして自問自答される。