泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

若者の幸せよりも

 何だか今の若者が過去最高に幸福だとかどうだとか局所的に話題の様子。
 誰でも自分ひとりの人生しか生きられないのだから、私はいま幸福だとか不幸だとかいう主観的な評価は、それまでの人生の中で社会的な影響を相当に受けたであろう「期待」の水準と、直接に間接に触れることになる現実の社会のありよう(もしくはそのイメージ)に左右されるわけで、ここでいう「社会」に含まれるものの膨大さを考えれば、「若者がいま幸福だと思える理由」なんて軽々しく主張できるものではないと思うのだけれど。
 若者が幸福かどうかにはあまり興味がもてない。そんなことより「自分以外の誰かの幸福に関心をもてるのかどうか」のほうがずっと気になる。いや、身近な家族だとか友人だとか恋人だとかは当然だけれど、もっと想像力の求められるような位置にいる人たち、例えばマイノリティと呼ばれる人たちに対して。
 議論の中心にいる人たちの著書など何も読んでいないのにこんなことを書いてしまうのは、今日も学生ボランティアたちのやりとりを見ながら、思ったのである。みんな何年も障害を子どもたちや家族と関わっているにもかかわらず、どうしてこれほどまでに自分の生きる社会が誰かにとっては非常に不便なものであるということに想像が及ばないのだろうかと。みんな一流と呼ばれる大学の学生であるのに。子どもたちのしんどさの原因は、すべて子どもたちの内部にあるかのようだ。
 圧倒的に多数の人々から支持を得ている政治が、誰かの犠牲のもとに成り立つことは全く珍しくないわけで。自分たちの仕事というのは、支援者であるボランティアに対してそうした構造を可視化する効果も期待できるはずなのに、あまり成果が上がっているように思えない。
 「自己中」と「自己中」がぶつかったとき、本当に同じ社会が問い直されるのだろうか。そこで無条件に社会は分断されずに済むのだろうか。