泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

今を楽しむことの支援

 朝から高校生ボランティアの面接。ものすごくしっかりしているので、なぜしっかりしているのかを知るためにいろいろと聞いてみるが、結局わからない。帰国子女だけれど、それは理由にはならない。特にアルバイト経験が豊富なわけでもなければ、社会的な活動をしてきたわけでもない。ひとつだけ考えられるのは海外での習い事経験が豊富なこと。うーむ、それだけでこんなにしっかりするだろうか。長く続けてほしいけれど、家がひどく遠いのが少し残念。
 4ヶ月ぶりの学童は問題なく終了。担当の子どもも混乱なく、受け止めてくれていた。予想どおり、たくさんの子どもたちのおもちゃにされる。年齢のことであれこれいじられる。「うちのお父さん19歳」「うちのお母さんは22歳」など、明らかにサバを読まれた保護者の年齢をなぜか自慢げに話す子どもたち多数。「ジャニーズ系の先生に来てほしかった」。そりゃ悪かった。すんません。
 夜の筋ジス研修はすごく考えさせられる話が多く、学生へのインパクトは大きかったようだ。残酷な病気だといつも思うのだが、具体的な子どもや家族の人生と重ね合わせながら話してもらうと、いっそう「今」を大事にしなければいけないと思う。そして、医学的な知識の大切さも。医療と福祉の連携の重要性は盛んに言われてきたが、それがなぜ重要なのかは今では自明のこととして深く論じられることもない(「医療福祉」なんて呼ばれる領域はあるが、地域で暮らす障害者の福祉と医療の関連について追求しているというイメージが自分にはあまりない)。
 医療の力で治すことのできないものに翻弄されながらも、生活は続く。次第に身体が衰えていく中で、今を楽しみたい、楽しませたいという思いがある。人生において「楽しい経験をしたい」という当たり前の欲求は、「楽しさ」という言葉の軽さゆえに(少なくとも法制度的には)受け止められにくい。欲求階層説がしばしば批判される点でもある。日々を生きる活力の多くは、本来的には単純な楽しさの積み重ねにしかないと考えたい。「目標」や「夢」を持って生きることこそが善きこととされやすい社会の中で、筋ジスをはじめ、進行性の障害から投げかけられる問いは多い。
 支援者として先を見越すと「思い出を作れるように」などとも考えてしまうが、これはきっと「今を楽しむ」ことを大切にした態度ではない。それでも先のことを考えずして立てられない「計画」もある。ここで「何を大切にした生き方を選ぶにせよ、本人が決めることだ」と言うのが、ひとつのオーソドックスな解決策のようにも思える。しかし、自分たちが関わっている筋ジスの子どもは知的障害も併せ持ち、身体的な衰えそのものをどう受け止めているのかもわかりにくい。未来を見据えた意思決定も難しい。「これから何を大切にしたいのか」について、試行錯誤を繰り返す時間もあまりないように思える。ならば、どうすればよいか。今の自分にはまだ整理がつかない。毎日、整理がつかないことばかりだ。結局、ガイドヘルプの調整をひたすら続けるしかないのが、もどかしい。