泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

狙いは何だ

立岩真也(2005)「障害者自立支援法、やり直すべし
──にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか──」
『精神医療』
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005032.htm
 立岩さんは、本当に優秀な方だと尊敬しているし、自分が障害者の介助制度についてまともに勉強するきっかけとなったのは担当教授に薦められて読んだ『生の技法』だったし、その考え方の多くにも共感する。けれども、今回の文章は少し気になる。理論的なことではなく、この文章を書いた動機や目的について。

 当の厚生労働省の側が、積極的に予算を抑制しようと思っているのではない。むしろ、他の省庁と同じで、それぞれの担当の予算は確保したいと思っているし、自らが関わる事業を発展させたいとも思っている。自分の縄張りだから、という以外に、それなりの使命感と気概をもって仕事に当たっている人たちがいることも私は否定しない。

 と書くことで親厚労省派/反厚労省派の対立を中和し、サービス利用にかかる「審査」について、

 身体障害の場合は──比べれば、だが──まだよいかもしれない。何ができないかが比較的はっきりするから、それを補えばよいということになる。しかし、精神障害の場合など、外側から見てもよくわからない。これまでの制度はおおむね身体障害の人に限ったものだった。けれども知的障害の人、精神障害の人にも介助は必要である。このことは認められたとしよう。そして人数もたくさんになる。その人たちの生活の何を手伝うということになるのか。その基準が決められるという。しかしこれにはとても難しくそして危険なところがある。その無謀さ、危険さに気がついているだろうか。そんなことは自分でできるはずだと言われ、そうでないことを言いたいが、うまく言えず、言えても聞いてはくれず、聞いてはくれても結局向う側の決めたとおりになる。そんなことが、今も起こっているのだが、もっと、そして制度そのものに組み込まれたこととして起こる。そんなことが、その人たちを暗くさせ、生き難くさせていく。

 と書くことで、主体的にであれ政治的にであれ分断されがちだった身体・知的・精神の3分野を連帯させるための論点を提示しようとしているのかと思いきや(それにしても「これまでの制度はおおむね身体障害の人に限ったものだった」というのは、ちょっとひどいんじゃないだろうか。「これまで」というのを「いつまで」と理解すべきかにもよるけど)、次のように苛立ちを見せてしまう。

 そうしたことごとを、法案を作る側の人たちもまともに考えていないし、案に賛成しそうな(精神そして知的)障害者の(親などの)関係者の団体も受け止めているように思えない。このような気にされなさ、鈍感さ、気にしないでおこうという割り切りが、私にはとても気になる。

 「理念的にも論理的にもすぐれた身体障害者分野」対「そうでない他分野」の図式を出してしまうことは、たとえ現実にそうであったとしても、誰のためにもならないと思うのだが。「気にされなさ」「鈍感さ」「気にしないでおこうという割り切り」がどこから来ているのかを論じなければ、ここ数年で顕著になってしまったように見える障害分野間の溝は埋まらない。もしそれを論じる力がありながら、何か理由があって論じられないならば、こんな中途半端なことははじめから書くべきではないと思う。これを読んで、知的・精神の関係者はただ苛立つだけだろう。挑発から何が生まれると期待しているのか、自分にはわからない。