泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

医者が発達を「子ども集団」に委ねる不思議

発達障害の子どもを理解する (集英社新書)

発達障害の子どもを理解する (集英社新書)

 著者は「小児神経専門医」である。
 子どもを「発達障害」とラベリングしたがる風潮に警鐘をならしたいのだろうけれど、「胎児期に生じる脳、運動、知覚の異常が、新生児期以降にコミュニケーションの障害を引き起こし、本格的な集団生活が始まる幼児期になって社会性の問題に発展する」という仮説を主張していたり、脳機能研究を紹介したり、当事者研究から発達障害の生きづらさの体験を引用したり、医学モデル的なものと社会モデル的なものと当事者目線との間でブレまくっているように見える。たぶん「どれも言いたかった」のだろう。どれも言いたいのならば、それを矛盾なくまとめあげる工夫が必要なのだが、最後までばらばらなままだった。
 「発達障害」という対象への「社会的な意味づけ」の問題は、具体的な子どもへのアプローチとはっきり区別しなければ、読む側は「発達障害」の理解も対応も「本当は必要でなかったはずの過剰なもの」として受け止めてしまいかねない。下手をすると、著者自身が実際にそう考えているような雰囲気もうかがえる。
 全く共感できず、実証的でもない「教育における子どもの個別化が、子ども集団を解体させて、社会性のない子どもを増やした」「子どもの世界の中で子どもは育つ」などという主張を繰り返しながら、具体的な発達障害の理解や支援方法については「子どもひとりひとりの発達全体をトータルに見るべき」「ABAの有効性は長期的で大規模な調査の末に効果が示されているわけではない」などとエビデンスを重視したいのかしたくないのかよくわからない態度で、時計の針を逆戻りさせようとしているようにしか思えない。「行動療法」の問題点が「1.般化ができない」「2.行動の『動機』を考慮しない」「3.主観的体験に欠ける」「4.長期的な見守りという視点の欠如」の4点だという指摘には、少しでもABAを勉強した人ならひっくり返るだろう。
 専門としてよく研究されているらしい「運動」と「知覚」の関係などについて重点的に書いてくれればいいのに、それもわずかな説明で終わる。運動や感覚の問題は、その重要性に注目が集まりつつあるだけに、非常に残念。