泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

まちづくりワークショップで聞いたハシズム待望論

 地元で行政計画策定に伴うまちづくり関係のワークショップに参加。
 参加者のほとんどが自分から作文まで書いて応募した住民たちである。3ケタに届くか届かないかぐらいの人数。今日が2回目だった。グループを変えて、何度も議論を繰り返す。
 行政(や委託業者)によって開かれるこの種のワークショップは少なからず「住民の声を聞いた」というアリバイづくりの狙いか、「自分たちで何かをやろうと思う住民を生み出そう(つなげよう)」という実践的な意図が含まれている。どちらにしても、行政に要求をつきつけられる形で終わらせるのは、主催者の望むところではない。それがもう十分にわかっているだけに、参加が決まったときから自分は何の要求をする気もなかった。仕事を進める中で行政に望むことはたくさんあるが、この場で主張してもほとんど意味がない。誰かしら面白い人に出会えればいい、ぐらいの気持ちである。
 実際に参加してみると、自分と同じような思いの住民がたくさんいる。ただ、それは行政計画への期待の無さというよりも、純粋に新たな出会いを楽しみたい人々であって、すごくワークショップに適合している。きっと主催者が大喜びするターゲットだ。この人たちは地元地域が純粋に好きで、愛着をもち誇りにも思ってもいる。地域にさまざまな課題があるとは考えても、行政責任を追及するつもりはない。自分にできることを見つけようとする人たち。
 ところが、そうでない人々もいる。感覚的には半数を少し上回るぐらい。
 この人たちは地元に対して愛憎半ばである。方向性はどうあれ、現状には満足せずに「もっとよくなりうる」と思っている。中には「もっとよくしよう」と思って動いてきた人もいる。ところが、うまくいかない。農業とか産業とか交通とかに対する様々な提案は、大部分が個人の力ではどうにもならず、かつ規制や既得権者によって変化を拒まれている。
 そこで、あの人の名前が出てくる。
 「この地域にも橋下さんみたいな首長が出てくればいいのに…」。
 ここで求められているのは、自分にはどうすることもできない課題をトップダウンで解決してくれる強大なパワーである。参加者はみんな「リーダーシップ」と言うが、その言葉の意味は、自分では動かせないものを代わりに動かしてくれることだ。これがいわゆる「閉塞感の打破」なのだろう。ただ、閉塞「感」という次元ではなく、具体的に閉塞した状況に直面した参加者から「橋下」の名前は出てくる。主催者から「住民としてできること」を問われると「税金を払う以外に何があるのか?」という回答が出て、話が終わる。
 高齢化が進んでいるとか、福祉資源が不足しているとか、住民どうしのつながりが希薄になっているとか、何かを「壊す」とか「奪う」必要が生じない課題に関心をもつ人たちから「橋下」の名前は出てこない。この人たちは、先に挙げた「純粋に新たな出会いを楽しみたい人たち」「自分にできることを見つけたい人たち」とかなり重なる印象。
 おそらく「ハシズム」を招きよせるのは、ボトムアップで状況を変える方法を見失った人たちであるのだろうと思う。
 だとすれば(自分も含めて)ハシズム的手法に危うさを感じる人々がすべきことは、その手法の問題点や犠牲になる人たちの存在をアピールすること以上に「自分にはどうすることもできないことに直面したときに、住民はどのように行動するのか」「なぜ、閉塞状況が運動や政策提言として実を結んでいかないか」を分析して、ボトムアップで状況を打破する手法を模索することなんじゃないだろうか。
 大阪市職員の人件費カットに溜飲を下げる人たちは熱狂的な支持者ではないのだろう。より強い支持の動機をもった人たちはもっと具体的な閉塞状況に置かれているに違いない。それは、なぜ打破されてこなかったのか。どうすれば打破できるのか。強権発動しかないのか。
 そのような検証作業がどこかでなされているならば、政治についてド素人である自分の勝手な心配でしかない。しかし、身近なところで何度も「橋下」待望論を聞く羽目になり、それに対して誰も何ら対案を出せない状況に直面して「まずい」と思った。これって、学問分野で言ったら「何」学の取り扱う領域なのだろうか。