泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

発達障害を「暴力的カテゴライズ」と断じる意味はあるか?

 Yahooのトップページでまでアスペルガーの診断名が無くなることが話題にされ、しかもその一番に貼られたリンクが「精神障害発達障害は近代社会による『暴力的カテゴライズ』だが、受け入れることで支援してもらえる部分もあるから、まあうまく使っていかなきゃしょうがないか」という内容で、もう本当にいい加減にしてくれと思う。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラム
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20130503-00024704/
 自分は「発達障害」に特化して近代以前からこれまでの言説をきちんと歴史的に追った研究を全く見たことがない。概念がなかったから、そのような困難さ自体が存在しなかったと言える根拠にはならないだろう。近代以前の社会ならば、今でいうところの「発達障害」の人は困ってなかった、といかなる根拠をもって言えるのだろうか。当事者は「中世に生まれればよかった」と思うのだろうか。そして、「発達障害」への支援策が具体的に講じられるようになってきた今、この概念を「暴力的」と呼ぶ意味は何だろうか。
 障害の社会的構築を叫びたがる人は、あたかも「近代以前の社会は多様性に寛容だった」「効率性の観点から人を排除することがなかった」かのように言う。しかし、そんな歴史観を自分は信じることができないし、まともに発達障害の人々を支援しているならば「理解」ではなく「寛容さ」が暮らしを楽にしてくれるなんてことも信じられないだろう(「寛容さ」の代わりに「共同体」「宗教」などを入れてもらってもかまわない)。「みんな自分みたいに他者に対して寛容だったら、あえて『障害』なんて思わなくても大丈夫だよ」と考えているのだとしたら、その自称「寛容」は、障害「理解」を経由した末の状況であるということに無自覚なだけではないか。筆者は具体的な支援にも関わっているようだし、かなり考えにくい話ではあるが。
 社会的な理解を促すにあたって「名づけ」は避けられない。もちろん「障害」という表現が必ずしも妥当か、と問われれば、その呼び名は何でもいい。そもそもdisorderを「障害」と訳すのが適切かどうかだって、難しい問題だ。しかし「近代的『名づけ』とカテゴライズの暴力」は、呼び名をどんなふうに変えても無くならない。筆者自身も「逃れられない」と書いている。ならば、彼は永遠に無くなることのない暴力性をこれからもずっと指摘し続けるしかないのだろう。「ニュータイプ」と呼んだから、暴力的でなくなる、ということでもあるまい。
 当事者が抱く「名づけられなければ、カテゴライズされなければ支援を受けられない空しさ」を支援者がずっと知っておくことは必要だ。しかし、名づける文化や行為を「暴力的」であると言うことは、名づけるしかない立場の者を「加害者」に、さらに名づけられた者を「被害者」にする。筆者が、そのように誰かの加害者性を責めたり、誰かに被害者性を付与する意図をもっているかどうかは、わからない。たぶん違うと言うだろう。しかし「ここでいう暴力性は特定の人々に帰属したり、向けられたりするものではないのだ」と言うならば、今度は内実もあいまいな「近代社会」のシステムに責任を負わせるしかなくなってしまう。「勝手にそのように『暴力』を解釈するほうが悪い」というならば、それもまた筆者の言う程度には「暴力的」である。
 診断名や障害名を「暴力的カテゴライズ」と名づけることの暴力性に対しても「避けられない」と言うだろうか。どうせ名づけなければいけないならば、もっと良い名前をつけろ、と言うならば、そのブーメランはきっと筆者のところに戻っていく。しっかりキャッチしてもらいたい。