泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「特別扱い」にはいろいろある

痛いニュース(ノ∀`) : 「障害を特別扱いしないで。脳性マヒの息子を普通学級に通わせたい」 両親の訴えが実現、介助看護師を小中学校に派遣…成田市 - ライブドアブログ
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1588507.html
 リンク先ははてなブックマークである。ブックマークコメントの多くが批判的なものだが、元記事(痛いニュース)のほうはもっと読むに堪えない。みんな言いたい放題。
 彼の心身の状況も中途半端にしかわからないし、彼自身がどう思っているのかもこの記事からは読み取れないから、普通学級が望ましいのかどうかを自分は言えない。ただ、的外れな批判はたくさんある。
 批判する人たちの反応の中に「保護者のやっていることこそ『特別扱い』」という声があるが、障害をもつ子どもたちへの教育に与えられた名前は「特別支援教育」である。子どもひとりひとりのニーズに合った教育を受けられるようにすることが必要だとされている。特別支援教育は普通学級にいる生徒ももちろん含む。
 「特別」というのは、ひとつの区別を意味する言葉にすぎない。区別は好まれることも嫌われることもある。
 他人と全く区別されないなら、そこに人格はない。家族や友人やパートナーから「特別」に扱われないことに人は耐えられないだろう。
 一方で、等しく同じ人間であるのに自分だけがそこにいることを認められないのであれば、そのような「特別」は「差別」と呼ばれる。多様な「特別」を混同してはならない。
 特別支援教育が「正」の特別扱いとなるか、「負」の特別扱いとなるかは、より大きなカテゴリーとしての「教育」そのものの理念にかかっている。
 「教育」が子どもを集団として捉え、そこに「個」を見ようとしない制度であろうとするならば「特別支援教育」がどんなに高い理念をもっていても「負」の特別扱いとして解釈されかねない。不思議なことに「十把一絡げ」こそが、皆を満足させるものとなる。
 「教育」が子どもひとりひとりのニーズを見極め、必要な教育や支援を行なっていこうとするならば「特別支援教育」は「正」の特別扱いとなる。それはもはや「特別」という言葉を必要としないだろう。「すべての子どもたちが特別」だからだ。
 そう考えると、批判する側もされる側もみんな貧しい教育の犠牲であるという点で同じ土台に乗っているのかもしれない。どんな社会的位置から事態を見ているか、の違いがあるだけ。
 ついでに書いておくと「税金の無駄づかい」的な批判は完全に間違い。特別支援学校で子どもひとりあたりに900万円ほどの予算が使われていることを知れば(この金額はとても単純な割り算の結果でしかなく、障害福祉からの妬みの原因にもなっているものであって、もう少し精査してみる必要はあるだろうが)、介助看護師ひとり雇うのなんて大したことないことがわかるはず。