泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「普遍的なルールを順守させる」責任を背負った教育を観て

 世間ではあまり話題になっていないのだけれど、映画『みんなの学校』をご存じだろうか。
 大阪の住吉区にある「大空小学校」の教育を取材したドキュメンタリー映画で、制作は関西テレビ。フジテレビ系列局ではテレビ放送もあった。「平成25年度文化庁芸術祭賞大賞」をはじめ、受賞歴も数多い。
 今年2月から全国で順次公開されており、ようやく地元でも上映があったので観に行ってきた。ふだん映画を観ることがほとんどなく、劇場で2時間拘束されることが嫌いな自分がわざわざ足を運んだのは、この作品の評価が「関係者」のあいだであまりに高かったからだ。
 ここでの「関係者」とは「障害児」の教育や福祉に関わる人々である。大空小学校とはどんな学校か。公式サイトから引用したい。

大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました。

 大空小学校は生徒数が220人ほど。そのうち30人が特別支援教育の対象児である。この割合は一般的な学校では考えられない。他の学校に通えない障害児が特定の公立小学校に集まってくる、というのはかなり異様な事態である。背景には、2006年から学区内の一部地域で隣の小学校とどちらかを選べる状況になっていたことがある(2013年から住吉区学校選択制を導入)。また、大空小学校の教育を受けさせたい、という転入もあるようだ。
 こうした「学校選択」のあり方もずいぶん大きな課題を示していると思うのだが、それはドキュメンタリーの主題ではない。大空小学校の特徴は「特別支援教育の対象児もみんな普通学級で学んでいる」ということである。つまり、クラスの1割以上が「障害児」であるということだ。
 みんながともに学ぶ「インクルーシブ教育」の重要性が叫ばれる反面で、日本の「特別支援学校」の生徒数はずっと増え続けている。「発達障害の子どもが増えているのはなぜか」にはいろいろな答え方ができるだろう。ひとまず、すべての子どもが「別の学校」どころか、「別の学級」ですらない「同じ学級で学ぶ」を徹底させることは、多くの「学校」にとってなかなかイメージしがたい状況である、と言える。
 それゆえ「望まずに教育の場を分けられてきた」あるいは「自ら学校に通えなくなった」子どもの家族にとって、大空小学校は理想のモデルたりうる。このドキュメンタリー映画を「教科書」として先生に学んでほしい、という関係者は多いだろう。
 だからこそ、「本当にこれを教科書にして大丈夫か」を自分の目で確認したかった、というのが鑑賞理由。実はテレビで深夜に放送された際にも、チャンネルを偶然合わせて、一部分だけを観ていた。そのときにも少し「危うさ」を感じたから、改めて批判的に観たい、と思った。そして、休日にようやく鑑賞。
 余談だが、劇場サイトにはずっと「大変混雑しております」と申し添えられていた。が、今は出ていない。これは数日前から上映時間が変わった影響で、子どもたちが通学しているあいだに保護者が見に来られなくなったからだと想像している。
 さて、映画の感想。正直言って、「子ども」を描いた映画という印象を強くもてなかった。「校長のリーダーシップを描いた映画」という感想も聞いたが、それもうなずける。この映画のかなりの部分は校長先生と子ども、あるいは校長先生と他の教師のやりとりに割かれていた。ただ、もちろん「学校」という多数の人が行き交う場所をドキュメンタリーとして撮影しようとすれば、特定の誰かに注目せざるをえないし、校長を中心としながら子どもたちを描くのは避けられないことだったのかもしれない。
 学校に対して拒否的な子ども、朝起きられない子ども、他児とトラブルを起こしやすい子どもなどに対して、校長は一貫した態度をとっている。学校唯一のルールは「自分がされていやなことは人にしない、言わない」。このルールを「問題児」扱いされやすい子どもたちにも適応して、校長は一歩も引かない。「みんなの学校」を作るためである。
 多くの学校は「問題を起こす子」に対して排除的になる。ルールから逸脱する者を、ルールの中にとどめさせるよりも、学級から遠ざけてしまうほうがラクである。不登校でも発達障害でも知的障害でも、特に支援を考えなければどんどん学校に来られなくなるか、他の学校に行くだろう。多くの教師がそれを望んでいるとまでは言わないが、そのような展開に強く抵抗できる教師は少ない。それゆえに、「普遍的なルールを徹底的に全員に課す」という極めて単純なことが、学校にとっては大変な難題となるわけだ。ルールを守れ、というのは容易く、ルールを破ったものを追い出すのもたやすい。「ルール」を子どもたちにとっての課題とするのではなく、「ルールを子どもに守らせること」を自らの課題としたとき、教師は「方法」を考えねばならない。校長は他の教師たちにも厳しく接しているし、周囲の子どもたちにもみんなでいっしょにいられるための「方法」を考えさせる。
 ここまでは全くよい。この映画の中で疑問に感じるのは、その「方法」が個々の子どもにとって適切なものであるのかどうか、である。
 映画の中で子どもの「能力」「特性」についての情報はほとんど与えられない。障害児についても「障害名」など全く出てこない。子どもが転校してくるときにも、以前に在籍した学校から申し送られた評価は留保されている。それも先入観抜きで子どもと関わろうとする姿勢としてみれば、気にならない。
 ただ、子どもについて教師が自分の目で理解する、というとき、どんな方法がとられているのかは、最後までよくわからなかった。映し出されるのは、とにかく「普遍的なルール」を守らせようとする場面がほとんどで、そこに登場してきた子どもたちは「自分がされていやなことは人にしない、言わない」の意味がかろうじて理解できる子どもたちに限られているように見える(これさえも疑えなくはないが)。
 すると「教師が難しい子どもに正面から向き合った結果、子どもが葛藤と戦いながら、周囲とうまくやろうとする姿」に出会える。それはなかなか感動的だ。しかし、このルール自体の理解が難しい子どもたちはいなかったのかどうか。あるいは「されていやなこと」のハードルが他児と比べてものすごく低い子どもがいたら、どうしているのか。多くの子どもにとってはなんでもない音に対して、耳に指をつっこんで我慢している子どもは映っていたが、イヤマフしても耐えられないくらいの感覚過敏がある子どもはどうしているのか。年に一度の学校行事が意味不明でパニックになる子どもはどうしているのか。もし、そのような子どもたちがこの学校に「いない」のだとしたら、それはなぜなのか。
 「みんなの学校」とは手段なのだろうか目的なのだろうか。「みんなの社会」を作るための担い手がこうした学校の中で育まれるという期待は大きいに違いない。多様な人間について知らなければ、多様な人間の生きられる社会は作れない、と皆が思う。ただ、誰かに理解されることを目的として生きる子どもはいない。自分にとって苦痛を感じることなく安心を得られる環境の中で生きることを求め、それをどのように理解するのかは周囲に課された課題である。こう書くと必ず「誰でも生きる中で苦痛や軋轢を感じるのが当然なのだから、それも含めて当たり前の社会だ」という反応が返ってくるのはわかっているが、「苦痛」をどのようにどれほど感じるか、は極めて個人差が大きいものであって、あらかじめ環境の設定だけを先に決められるものだろうか。率直に言って、「この学校は特別支援学級がないから」と特別支援学校への就学を決めざるをえなかった保護者はいるように想像される。
 各地の教育委員会がこの映画を観て心を打たれ、「支援学級廃止」「全員普通学級」を叫び始めるとは思わないが、30人を超える子どもたちが同じ部屋の中で同時に相互作用しながら同じことを学ばなければいけない、という教育システムの前提そのものが「ノーマルな子ども」を強く想定したものではないのか、と疑わない中で、この映画が「インクルーシブ教育」の先駆的な姿として賞賛ばかりされることには、もっと批判的な声もあげておくべきだと思った。だから、反批判は覚悟の上で、書いてみることにした。
 自分の立場からすると、映画を観た保護者の声をもっと聴いてみたい。どんな子どもを育て、どんな経験をしてきたのか、も併せて。