泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「親学」「人間力」、そして次に来たのは…

 かねてから「親学」で、最近は「人間力」でも話題の文部科学大臣であるが、大きく報道されないところでも、ずいぶんと迷惑で「今さら」感あふれる話題を提供している。「人間力」の話よりも具体的な話で、個人的にはとても不安が大きい。「子ども・子育て支援」関係者も、以下で紹介するような動きには危機感をもったほうがよいのではないか(その「内容」以上に「手法」に対して)。前回の更新でも触れたのだが、中途半端な記事になったので、もう一度書きたい。

「子ども」は「子供」になったんだ
https://twitter.com/h_okumura/status/359886223088689152
記事の全文をちゃんと読みたい人はこちらをどうぞ↓
http://blog.goo.ne.jp/11kitano22/e/9e49307281f3a54983771cdbd7aa54a6
 要するに、文部科学省が公用文中でこれまでほとんど「子ども」と表記していたのを「子供」に変えろと大臣が命じた、という話である。「(漢字とひらがなの)交ぜ書き表記の廃止を求める団体からの請願」もあったという(※新しい歴史教科書を作る会の関係っぽい。こんな動画も見つけた。6分過ぎあたりから)。
 「子供」と「子ども」の両表記が使われていたのを一方に『統一』したのだ」と言うかもしれないが、既に行政文書で「子供」表記なんて全く見る機会もなくなっていたので(記事中には、法令や固有名詞には一部『子供』表記がまだ使われているように書かれているけれど、自分はひとつも知らないぐらいなので、かなり希少な例だろう)、子どもと関わる仕事をしている立場から見れば、大臣が個人的な(あるいは自民党としての)好みで「変更」させた、としか解釈のしようがない。冒頭に書いたような大臣の「日頃の行い」もあるから、なおさらだ。
 世間からすれば、もしかしたら「どっちも使われている」「ひらがな交じりは確かに気持ち悪い」「『障害』を『障がい』と書くのと同じで嫌いだ」「昔は『子供』でよかったはずだ」などという印象かもしれないが、教育・福祉現場の状況からすれば、もう今さら何を言い出すのかというぐらいの時代錯誤である。
 自分が大学で福祉系科目を学んだのは1990年代の後半であったが、すでに「子供」表記は誰も使っていなかった。それからさらに20年近くが経ち、今や「子ども」以外の表記は考えられない。「お前はなぜ『子ども』と書くことに疑問を抱かなかったのか?」「『子ども』と書くことに賛同できる積極的理由がないなら、それを貫くべきだったのではないか」と言われるだろうか。当たり前のように教師や学生がみんな「子ども」と書く中で学んできて、その後も研究や仕事で表記をしなければならないときに、誰がわざわざみんな使っていない表記にこだわるのか。それこそ教育・福祉現場の中での「統一」感を欠くことになる。
 参考までに、CiNiiで「子ども」「子供」をキーワードに論文検索をかけてみると、論文タイトルに「子供」「子ども」表記を含んだ論文数は、以下のとおり。

「子供」:「子ども」
75:2(20年代
151:19(30年代)
186:56(40年代)
996:1087(50年代)
279:1804(60年代)
639:4841(70年代)
1330:7566(80年代)
2954:15515(90年代)
4401:40995(00年代)
1569:17721(10年代)

 およそ戦前まで遡らないと「子供」が「子ども」を上回ったことはない。2010年代には「子ども」が「子供」の10倍以上である。今でも「子供」表記を使っているのは、限られた分野や媒体になっている。
 「子供」から「子ども」に変わっていった理由は、はっきりしない。「供える」という言葉のイメージから使われなくなった、という話は聞くが、きちんとした歴史研究を知らない。紹介した新聞記事にも関係者のコメントがあるが、しばしば引用されるのは、文化庁が1983年に出した『言葉に関する問答集』である。

問19 「子供」か「子ども」か
 「こども」という語は、本来、「こ(子)」に、複数を表す接尾語「ども」がついたものである。「宇利波米婆 胡藤母意保由‥(瓜食めば、子ども思ほゆ‥)」(万葉集巻5・802)と山上憶良の歌にもあるほど、古い語であるが、のち、「しにをくれじとたどれ共、子どものあしにあめのあし、おとなのあしにをひぬひて」(浄瑠璃、賀古信教)のように単数複数に関係なく用いられるようになった。
 その表記としては、「子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども」などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど「子供」の形を採り、「小供」は誤りと注記しているものもある。その後、「子ども」の表記も生まれたが、これは、「供」に当て字の色彩が濃いからであろう。
 昭和25年の「文部省刊行物の基準」では、「こども」と仮名書きを示し、「子供・子ども」を( )に入れて、漢字を使っても差し支えないが、仮名書きが望ましいものとしている。
 しかし、現在では、昭和56年の内閣告示「常用漢字表」の「供」の「とも」の訓(この訓は、昭和23年の内閣告示「当用漢字音訓表」にもあった)の項の例欄に「供、子供」と掲げられており、公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。
 なお、新聞・放送関係では、早くから、統一用語として「子供」を使うことになっている。ただし、実際の記事では、「子ども、こども」なども時に用いられることがあるようである。

 要するに「いろいろな表記がされているけれど、しょせんは『当て字』である。常用漢字表の『供』のところに使用例として『子供』があったから、公用文では『子供』でいいんじゃない?」である。それならば、いま常用漢字表を作り直したら「供」の項に「子供」と書くのだろうかというツッコミも入れたくなる。
 どっちにしても単なる「当て字」であるならば、「子ども」であろうが「子供」であろうがよかろうと思うし、引用にあるような公用文中のルールとは異なるところで「子ども」表記は広まってきたわけで、一般で普及した経緯もまともに確認せずに、公用文中でも一般化した表記を「内規がないから」と数十年前まで戻せてしまうのはおそろしい(ちなみに自民党の公約中の表現は2010年参院選では「子ども」、昨年末の衆院選から「子供」)。
 「供」が「お供え」を連想させるから人権上よろしくないという主張とそれへの反論には、興味がない。「人権上で反対だvsただの当て字だから問題ない」という対立軸を設けても、どうせ平行線である。「子ども」にこだわることが「言葉狩り」だの「思想的偏向」だのと言われることがあるが、「子供」にこだわるのも単なる表記の問題とは考えがたい思想的背景が見え隠れしている。たぶん「戦後、アメリカから国語表記についてこんなこと言われて屈辱的で…」という話にも行きつく。自分は思想的に「子ども」表記にこだわりたい、というよりも、こんな大臣(や特定団体)の考えひとつで、20年近くにわたって書き慣れた表記を変えさせられてたまるか、と思う。
 文部科学省が「統一させろ」と言われれば、次は厚生労働省でもどうする、となるのが自然だろう。省庁間で統一されてないことが問題になっていく。「子ども子育て支援法」「子どもの権利条約」「子ども家庭支援センター」すべてダメ(「子ども」を含んだ法律はかなりの数に及ぶのではないか)。国公立大学の教員はどう教えるのか。「法令や制度上の名称で『子ども』となっているのは間違いです」って言いながら「子供」と書き換えるのだろうか(これは私大でも同じようなものか…)。それとも文部科学大臣は、これからこの国の法律にあふれる「子ども」表記をすべて「子供」に変更することに尽力するのだろうか。どちらにしてもバカバカしい悪夢だ。