泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「寛容さ」に救われないから「能力」に引き寄せられていく

 最近、シノドスが「障害者」に言及した記事をよく掲載している。これまで「論壇」的なものの中であまり扱われなかったものに注目が寄せられる背景には、きっとこの記事のような時代診断があるのだろう。

生き延びるための「障害」――「できないこと」を許さない社会 荒井裕樹
http://synodos.livedoor.biz/archives/1902249.html

 これは「発達障害者」の現況や支援のあり方を示そうとして書かれたものではない。「障害」にまつわる言説が「発達障害」のような白黒のはっきりさせにくい「障害」の存在によって拡張されて、たとえば精神医学的には必ずしも正確ではない「俺は『コミュ障』だから」のような使われ方が日常的な場面でも広まりつつある事態に、社会の側にある「非寛容」からわが身を救おうとする人々の生存戦略を見出そうとするものだ。

 障害の「社会モデル」的理解というのは何らかの意味で「障害」を「社会」の側に帰属させようとする。運動の立場から言えば、これは社会の側の責任を問うためのものであった。ところが、この論考で明らかにされた現状は「障害」の個人化(医学モデル化)を積極的に引き受けることによって、社会から期待される能力や責任から身を守り、ときには必要な支援を引き出そうとする、という「障害の医学モデル」を経由した「支援の社会化」であるようにも思える。

 いや「支援の社会化」というのは便利すぎるコトバで、単に「問題解決を個人の責任にする」ということの反対語としてこんなふうに用いるのはよくないか。「障害の医学モデル」を経由した「問題解決の『非・個人化』」とでも言うほうが適切だろう。すなわち「こんな私なので世の中にはこんな支援をしてもらわなければ困るのです(あるいは、こんな期待をされては困るのです)」ということ。社会の「責任」を問わずして、周囲による適切な対応は求めることができる。

 そんなふうに考えると、これは「発達障害」の人々が(自分の仕事の立場からすると、家族や支援者も)周囲を「責める」ことなく、現実的な支援を引き出そうと実際によく用いている方法であるとも言える。「診断名」が与えられることで支援が受けられる。「診断名」がないと、周囲から必要な配慮をしてもらえない。だから自ら「障害者」として名付けられることを選ぶ。

 しかし、そこには葛藤もついてまわる。「障害者」にならなければ、支援を受けられないのか。「障害者」に対して寛容な社会とは、本当に寛容なのか。問われるべきはカテゴライズされる以前の「人間」に対する寛容さではないのか。このような道筋から、荒井さんが書かれているような「できないこと」一般に対して厳しい社会へと目を向けていくこともできる。さまざまな「できなさ」に対する寛容さが必要なのだ、と。

 ここで荒井さんの論考からは少し外れていく。自分たちの行なっているような「支援」のあり方に関連づけて言えば「寛容さ」というのは便利すぎる言葉である。できないことを許容してもらえる、というのは、確かにファーストステップとして極めて正しいと思う。「できなくてもいいのだ」とまずは言える社会であってほしい。しかし、次にまた疑わなければならない。「できない」ことの解決は、「あきらめる」ことや「ゆっくりと待つ」ことにばかり求められるのだろうか。障害福祉関係者向けに言えば、『寛容さ』は合理的配慮の十分条件であるだろうか。

 「ここにいていいよ」「そのままでいいよ」と言ってもらえる寛容さは、そのまま幸福につながるとは限らない。どのように笑顔で迎えてもらえても周囲と自分を比較して「できない」ことに悩む自信や自尊心の問題は残りうる。「僕はできるけれど、君はできなくても問題ない」と言う人々に囲まれるのは、ときに苦しい。多くの人々は「能力」の意義を無視できずに、「みんなとすべて同じようにできなくても、私にはこれができる」ものが欲しいと思ってしまう。そんなふうに考えてしまうのはまだ修行が足らないというべきだろうか。

 「できない」ことを受け入れるのではなく、「できるようにしてくれ」と主張する当事者もありうる。「発達障害」をもつとされる「こんな私」の能力とは多くの場合に固定的なものではなく、関係的で動態的なものである。医学用語を使いながら「こんな私」と言ってみても、それは「私の能力」がいかにしても変わりようがないことを意味しない。それぞれの特性に合った支援環境が用意できれば、「できて」しまったりもするからこそ、巷には「発達障害者への支援方法」についての情報があふれる。「療育」や「発達支援」などと呼ばれるものも存在する。

 「できるようにしてくれ」というメッセージが当事者から発せられたとき、それは社会からの無言の圧力によるものだろうか。それとも、ただ「できること」の喜びを求めるものだろうか。容易に判断はできない。支援者はもちろん当事者にだってはっきりと区別はつけられないかもしれない(そもそも明確なメッセージを発することが困難で、周囲から見た行動の「解釈」として思いを理解するしかない人々も数多くいる)。しかし、区別がつけられないからと放っておけば、知らず知らずのうちに能力主義的な社会へと引き寄せられていくおそれもある。

 個人の力ではどうしようもないことを社会との関係性の中で解決しようと試みつつも、そのような努力が「能力主義」とも併存しうることに、障害学は戸惑っているのではないだろうか。「不利」や「不便」の社会的除去を超えて、能力の高みを目指させる可能性を潜在した発達障害の「社会モデル」を能力主義と合流させないための諸条件を探らねばならないのだろう。現場が取り組むべき課題でもあり、学問が取り組むべき課題でもある。