泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「フリーター予備校」でのモチベーション

 この時期だからなのか、大学生のことを書いたものが人気記事になることが多い。大学生にアルファベットの書き方を教えようとするシラバスは少なからず人々に衝撃を与えた。いったい大学とは何をするところなのかという根本が問われたりもしている。
 自分は臨時の非常勤講師として、1年だけゼミと卒論を受け持つ、という珍しい経験をしたわけだが、その大学の偏差値と例のアルファベット大学の偏差値を某予備校サイトで調べたところ、たった2しか違わなかった。ゼミ生にアルファベットを書いてもらおうとしたことはないが、もしかしたら書けない学生がいたのかもしれない。しかし、アルファベットが書けなくてもそんなに指導は困らない。意味のわかる日本語が書けない学生はいたし、その卒論指導でいったいどこから手をつけたらいいのか途方にくれたこともあった。だからといって、その学生と話し言葉でのコミュニケーションが全く成立しないわけではない。むしろ積極的によくゼミに出席して、ポイントを稼いだりする。足らない部分を他の力で補っている学生も多く、きっと社会に出て、すぐに生きていけなくなる、ということはないだろうとも思う。
 社会に出ていく前の助走期間として大学に期待するものを、多くの人々がイメージしている。そこから「これは高校までにできるようにしておくべきこと」とか「大学でやるのは税金のムダ」とかいっぱい言いたくなる。しかし、そこそこ名前の知られた大学とEランクFランク大学では、学生自身が思い描く「卒後の人生」がかなり異なっている。それを実感できたのは、4回生のゼミを1年間担当した過程と、ある学生の卒論による。
 4回生のゼミを休職した先生から引き継ぐことになったが、学生たちのリクルートスーツ姿を見る機会が全くないのが不思議だった。ゼミに来る学生からも欠席する学生からも「就職」という言葉を聞く機会がほとんどなかった。卒論を提出した時点で就職が決まっていた学生は2割。この2割を内定率の厳しさと間違えてはならない。なぜなら、残りの8割は就職活動自体を全く行っていなかったからである。つまり、4回生の冬にさしかかっても、就職活動をしている学生が全体の2割しかいなかったのだ。
 当初、これは自分が引き継ぐことになったゼミに固有の傾向なんだろうかとも考えていた(もともと他教員からは「大変な学生が多いゼミ」という評判だったし)。ところが、ひとりの学生(彼は就職活動をしていた)が卒論で学生対象に行った調査によって、その理解は一変する。
 調査の概要は以下のようなものだった。昨年、某企業が全国の大学三回生を対象にして行なった就職に対する意識調査がある。その全国調査の質問紙と全く同じものを用いて、学内の三回生にも就職に対する意識調査を行う。全く同じ質問紙であるから、ふたつの集計結果を単純に比較するだけでも、この大学の傾向が見える(もちろん統計的な分析まではしていない)。質問紙の配布方法や回収数にいくらかの問題も指摘できたが、副査を務めてくれた教授らは、多くの学生と関わっている経験から「全体の傾向は現れているのではないかと思う」と話していた。
 その調査結果に特徴的だったのは、まず大手企業を志向する学生が全国調査では約5割ほどいるのに対して、この大学では1割にも満たなかったこと。次に、会社選択の基準として、自分のやりたい仕事ができる会社を選びたいとする学生が全国調査では4割以上いるのに対して、この大学では2割程度にとどまったこと。そして、これが最もショックな数字であったが、「なにがなんでも就職したい」と「希望する就職先に決まらなければ、就職しなくともよい」の二択において、「なにがなんでも就職」と回答する学生が全国調査では9割いるのに対して、この大学では4割程度にとどまり、女子学生に限れば2割ちょっとしかいなかったのである。そして「就職しなくともよい」と答えた学生の希望進路は「フリーター」が約8割を占め、女子学生に限ればあと少しで9割に迫る数字であったのだ。
 なぜこのような結果になるのか、の分析は行われていない。しかし、調査をした学生も査読に入った教授陣も身の回りの経験から指摘していたのは、この大学の学生たちの「自信の無さ」であった。大学に入った時点から「大した就職なんて無理」と自己評価して、向上心をもつことを放棄しまう学生たち。就職活動の壁にぶつかるよりも前の三回生の時点で既に就職への執着がなく、フリーターでもいいと決めている学生たち。彼ら彼女らは、いったい何のために学ぶモチベーションをもつことができるだろうか。来たるべき「フリーター生活」に向けて、身に着けておかなければいけない能力とはいったい何だろうか。
 こうした問いに世間が答えられないならば、大学の一般的な講義はもちろん、アルファベットの書き方や句読点の打ち方でさえ、学ぶ動機も教える動機も得られなくなってしまうであろう。「学力」と「自信」を比例させたまま大学に入ってくるしかなかった学生の問題は、どこに誰に帰属させるべきであろうか。