泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

自閉症の現象学

自閉症の現象学

自閉症の現象学

 読了。こんな小難しい本を一気に読めたのだから、まだどこかに前向きさは残っているのかもしれない。
 たくさん売られている「自閉症支援マニュアル本」と比べればかなりとっつきにくいが、使い方によっては、意外と実践的な内容と言えるかもしれない。「自閉症の障害特性は・・・」と説明するよりも、「この子には、こんなふうに世界が体験されている」と説明できたほうが有効な場面というのがある。コミュニケーション、社会性、想像力、感覚過敏・・・などと特性を箇条書きするよりも、定型発達の過程との比較で示せたほうが理解を促しやすい場面もある。著者は「定型発達との比較を通して考察したために否定を媒介して自閉症を記述することになってしまった」と書いているが、現状として支援の必要性を世間に訴えるには、このほうがいいんじゃないだろうか(「ポジティブに記述することも可能」と書かれているので、それもぜひやってほしいが)。定型発達である支援者の立場からすると、自分が発達途上で当たり前にできるようになったことを自覚しなおすところから、支援を反省できる。
 哲学者・現象学者の名前や固有の概念がばんばん出てきて、理解できていないところも多いけれど、障害学と関連づけられる部分も多くあるのではないだろうか。たとえば、こんなような。

 感情表現を通して身体表面は内面性を表現する。内面性は、おそらく定型発達においても後天的に成立する制度であり、ある意味避けられない錯覚である。本当に現象しているのは「内面」ではなく、情動性や運動感覚という知覚野に還元できない諸位相が作動しつつ、知覚野における図式化の中で感情表現となる動的均衡である。とはいえ、この「内面性のメディアとしての身体」という制度・錯覚は、それをもとにして定型発達の社会が構成されている単位であり、コミュニケーションにとっても不可欠の道具である。それゆえ定型発達が多数を占める社会にあっては、この「錯覚」を共有できないとコミュニケーションが難しくなってしまう。
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