泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[日誌]複雑な生活

 人探しがついに一段落。地域であちらこちらに働きかけ続けて、およそ1ヶ月。今日でようやく3人を確保。それぞれ全く違うルートから見つかった。多くの人に頼っていった甲斐があった。これでシフトが組める。次の課題は、研修。自閉症の障害特性などゼロから説明しないといけない。唯一ヘルパー2級資格を持っている者が一番説明したほうがよさそうな理解度だったのはなぜだろう。とりあえずマンガで勉強してもらうところから、はじめようか。
 人探しをしていると、支援者の暮らしも多様だというのがよくわかる。特に主婦層。子育てが一段落ついたと思ったら、今度は親の介護が必要になって、というような例がいくらでも出てくる。生活時間や人生観、居住形態などもばらばらで、それぞれに配慮が要る。この多様性から考えたら、学生の生活なんてまだまだ一様だ。学生というのは、自由度が高く、生活の中身を自分で選び取りやすい身分なのだと思い知らされる。
 昨日やってきた中学生親子は、子どもが中学校で「つまづいている」そうで、わが子に学校を相対化させるための場としてボランティアやNPOが期待されていた。荒れてると評判の中学だし、4月から中2。悩み多き時期だろうと思う。「いやー、自分も中学校はもちろん、高校や大学でもつまづきっぱなしで」なんて話をする自分と親たちの横で、当の中学生は活動の写真など見て盛り上がっている。
 「平均的」な住民とか市民とか障害当事者とかボランティアなんてどこにもいない。全体の平均値とか代表性のようなものを信じて一般化されたプランはきっと失敗する。すると地域住民のために何かしようと思えば、ターゲットを絞るか、多様性をまるごと受け止められる包括的な仕組みを整えるか、である。支援者を集めるにあたって、地域内で自団体の差異化に勤しむなら断然に前者だろう。しかし、生活の多様性というのは個人の多くの属性をかけ算した結果に、属性には還元できないものを足して成り立っている。ターゲットを絞り込んでも多様さは相当に残っているし、それだからこそ、ひとりひとりの人格がいっそう際立って見える。
 複雑なものをどこまで単純化して捉えてよいか、というのは、きっと政策とか計画とか社会的な実践に携わるものにはついて回る問題なのだろう。単純化したが故にこぼれ落ちたものをすくい上げるのか。狙いはどうあれ、それにはきっと階層とか分断とかスティグマとかがおまけについてくる。そして、こぼれ落ちたほうに問題があるかのように言われる。それならば、はじめからこぼれおちないように複雑な設計を施しておくのか。「セーフティネット」なんて言葉を聞くと、しばしば感じる疑問でもある。
 全くの余談だが、スタッフ登録用紙の生年月日欄にH4年と書かれて、一瞬とはいえ「『H4』ってどういう意味だ?」と真剣に考えこんでしまった自分は、もう完全におっさんである。