泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

受け入れ拒否

 ボランティアをしたいとやってきた人と面接をして、こちらから活動を断った。大学生のときにボランティアコーディネーションの真似事をするようになってから、十数年。はじめてのことだ。これまで受け入れてきた数百人のボランティアの中にも多様性があり、はじめは頼りなかった学生が活動の中で大きく育つのも見てきた。それが受け入れのやりがいでもある。しかし、今回は出発地点があまりに後方過ぎた。
 電話をもらったときから、少し嫌な予感はしていた。実際に会ったら、だいたい予想通り。話しながら、頭を抱えた。コミュニケーションがほとんど成り立たない。活動への動機づけにも力強いものは感じられない。わずかばかり聞き出せた話の内容から推測するに、この人自身が生きていくのにたくさんの苦労をしているだろう。支援なりトレーニングなりが必要である。
 しかし、それをうちの活動の中でやるわけにもいかない。では、どこにそのための場があるのかと言えば、きっとどこにもない。本人がその必要を自覚しているわけでもないから、この人はきっとこのままだ。障害者支援をやってきた者としても、複雑な気持ちになる。
 最後は相手の機嫌も少し悪かった。せいいっぱい前向きな話をさせてもらったつもりだし、こんなこともありうると昔から想定してはいたけれど、やはり後味は悪い。人を「落とす」ことは、誰しも気持ちのいいことではないに決まっている。それでも、ボランティアを断ることの心苦しさは他と少し違う。何がどう違うのか。なぜ違うのか。ボランティアの特異性はきっとここからも考えられる。