泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[研究?]知的障害とナラティブ 

 西村愛(2005)「知的障害児・者の「主体」援助の陥穽を問う:ナラティブ・アプローチの批判的考察をもとに」『現代文明学研究』第7号(2005):410-420
 http://www.kinokopress.com/civil/0702.htm
 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060106経由。タイトルがとても気になるものだったので、読んだ。
 ナラティブ批判のために引き合いに出される話がナラティブアプローチとは自認していない事例ばかりのため、それが批判の根拠にされてしまっているのがよくわからないのだが、それは見逃すとしても気になる点がいくつか。
 ひとつめ。

 三原は、「ナラティブ・モデルが『言葉』を臨床場面において重視するのならば、『言葉』を語る能力の低い、あるいは能力のない重度知的障害者自閉症者、あるいは痴呆性老人に対して、このモデルではどのような援助を行うのであろうか。つまり、ナラティブ・モデルが『言葉』を重視する限り、『言葉』の能力の低い重度知的障害者自閉症者や痴呆性老人は直接、介入対象とはならない。これは、過去、伝統的なソーシャルワークが重度知的障害者に対して直接介入を怠ってきたという同じ過ちをナラティブ・モデルは犯そうとしているのである」と言葉を過度に重視するナラティブ・モデルに対して批判を行っている。しかしそれに対して、木原は「『重度の知的障害者』や、『自閉症者』、『痴呆性老人』というコトバこそ、1つの言説であり、そこに『言葉を語る能力の低い』というドミナント・ストーリーが形成されている」と反論する。さらに木原は、「無言、沈黙というのもれっきとした1つのコミュニケーションである」と述べる。確かに、木原の言うように、「重度の知的障害者」や「自閉症者」が必ずしも「言葉を語る能力が低い」ということに直結するわけではない。しかし、彼/彼女らの多くが、コミュニケーションとしての言葉をもたないことも事実として存在する。そのため、他者になかなか理解されがたい現実と木原が批判するような「ドミナント」な見方とは次元が異なるものであると言えよう。

 この議論はそもそもすれ違っていると思うので、これを根拠に木原さんやナラティブを批判するのは無理があると思う。松倉真理子(2003)「ソーシャルワークと物語 ―「物語モデル」をめぐるさまざまな文脈―」『評論・社会科学』第71号,25-45.の整理を参照してみる。

 一口に「物語モデル」といっても微妙にニュアンスが異なる様々な場合がある。(中略)まずは「物語」の次元をめぐって大きく二つの文脈を導き出すことができる。一つは、「ことばが現実をつくる」という視点から実際のソーシャルワークの「実践レベル」において新たな援助のありかたを展開するという文脈であり、もう一つは、こうした視点に基づいて、さらに「メタレベル」から援助という行い自体をどのように記述するのか/してきたのか、物語という概念において問い直すという文脈である。(中略)前者では援助論を、後者では自己言及論を意味するものとして「物語モデル」を用いることができる。

 まさに木原さんは後者について言っているわけで、技法レベルで知的障害者は言語的コミュニケーションが難しいとか言っているわけではないだろう。論文を通じて出てくる数々のひどい支援者の事例はまさにこの「自己言及論」の視点から反省されるべきものばかりだ。終盤でフェミニズムから「自明の概念を問い直す」ことの重要さを引き出しているが、それこそがナラティブアプローチの目的の一側面でもある。
 ふたつめ。
 そもそも「クライアント」は「主体」であるべきなんてことをナラティブを論じるときに主張する論者はほとんどいないと思う。この概念のおそろしさは既に共有されている。「いや、知的障害をもつが故に援助者のもつ価値観にあてはまらなければ認められないということを、ここでは「主体」の陥穽として問題視しているのだ」と言われるかもしれない。実践レベルで知的障害をもつ人にとってナラティブの技法が難しいことは事実と思うけれど、援助者と「対等」な立場に立つ困難は知的能力や言語能力の優劣とは関係なく生じるし、オルタナティブストーリーもまた社会的な構築物でしかないことはよく知られている。
 加茂・大下はナラティブ・モデルの問題点を5つあげる(加茂陽・大下由美「権力の秩序からずれる日常性」加茂編『日常性とソーシャルワーク』,58-81.)。

 まずは、価値判断の問題である。(中略)フーコーの系譜学の手法を、「今、ここで」のメッセージ交流の場面分析に応用し、ある特定の言説を日常場面でストーリー化する実践をクライアントに提唱する臨床的手法は、過去の生活史のなかでの言説やストーリー生成過程の分析に関しては有効性をもちえても、どの言説やストーリーを選択するべきであるのかという倫理的決定のレベルにおいては効力を失する。
 次は、ストーリーの実体的二分法の問題である。(中略)当事者のストーリーに耳を傾けて、「〜の言説の統制下にあるドミナント・ストーリーにあなたは支配されている」というように、複雑な日常を、言説と結びついているストーリー二元論から定義づけができるのであろうか。さらに重大な問題は、観念論的な両ストーリーの境界設定である。実際の生活場面ではストーリーは固定化されてはいない。分析手続き上、そこに支配、被支配と切れ目を入れ、区分する作業によって顕在化した類型は実在的類型ではない。それらの類型を実在物であるかのように論じる「ドミナントなストーリー」という二文法は、成立根拠を明るみに出すことで自己矛盾に陥る、モダンの発想そのものと言える。
 三つ目は、超越的主観の問題である。(中略)この援助方法を可能にするには、何が「ドミナント・ストーリー」であるのかを決定し、それから離れ、それとは矛盾する「オルタナティブ・ストーリー」を探し出す作業になる。これを可能にするには、どうしても、超越的主観を前提としなければならなくなる。これは(中略)このモデルの長所である、当事者のストーリーを重視し、専門的な知識から遠ざかろうとする治療者の立場をも覆してしまうことになる。
 第四の問題はナラティブ・モデルの自己矛盾についてである。
 対人援助を治療と定義づけることの正当性は時代のドミナントな言説によって支えられている。(中略)ところがナラティブ・モデルは言説の現実定義力に対抗することを戦略目標とするため、時代の支配的言説である治療思想に基づいた実践を行うことは自己矛盾となる。ナラティブ・モデルを強気に主張するならば、この矛盾に自覚的でなければならず、それゆえ何らかの解決法が自己否定的に模索されなければならない。たとえば、ナラティブ・モデルを矛盾体系の実践臨床理論として放棄するか、言説群の争いに身を投じ、政治的争いに関与するかの方法論が選択されなければならないであろう。
 最後は、言説の直接的な主体形成論の問題である。フーコーは、科学的言説が個々人の自己定義に影響を与えることを明らかにしたが、ホワイトらはこのフーコーのマクロレベルでの説明を応用して、日常的臨床の場における自己定義をも説明しようとした点である。日常の場面には様々な言説が存在し、人々が生活しているのは矛盾した文脈のなかである。そのなかで繰り広げられる自他の関係性生起のメカニズムは、一方的な抽象的で支配的な言説による現実生成力からの説明だけでは不十分である。なぜなら、人は過去の経験を現在の経験で、現在の経験を過去の経験で「主観的」に捉え直すことができるし、自己の経験を他者の経験で、他者の経験を自己の経験で「巻主観的」に捉え直すこともできる。それは逆に支配的ストーリーに影響を及ぼすものになる。それらいくつかの現実生成のレベルの絡み合いのなかで、自他の定義づけは行われ、スタックした適応様式を乗り越える新たな生活の意味の構成が生じるのである。つまり、援助場面で、介入者ができることは、クライアントとの関係性のなかで、主観的にそして間主観的に体験を統合していく過程に関与することであり、分析手続き上暫定的に作り出した、具体的行動、関係性そして言説から成る重層的意味群と、行動の制御規則の体系化をはかることであると言える。ゆえに日常に存在しているのは、多義的で不定形である、未だストーリーにはなりえていない様々なコミュニケイションの流動体であるので、問題のある状態は、ドミナントなストーリーに支配されている事態として一義的には定義されえないのである。(63〜66ページ)

 と、このあたりの議論は(ものすごく狭い世界の中で)活発である。ナラティブで用いられる「トラッキング」だとか「ミラクルクエスチョン」だとか「スケイリング」などの具体的な技法を、知的障害者のコミュニケーションとの関係の中で検討したら、いろいろと考えさせられることが多そうな気がするのだが。