泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[読書]欲求、規範、ノーマライゼーション

日本の社会保障 (岩波新書)

日本の社会保障 (岩波新書)

 社会福祉政策に興味のある人なら多くが読んでいるであろう本だが、まだ読んでいなかった。
 タイトルどおり、年金、医療、福祉など日本の社会保障についての簡明な説明。1章で、福祉国家について歴史的に概観し、市場への政府の介入度に基づいて福祉国家モデルを整理、社会保障をめぐる基本的な論点を提示する。2章は日本における社会保障の歴史的展開とその特徴のまとめ。
 3章では、まず経済学的視点から社会保障の役割を「所得再分配」と「リスクの分散」に分け、そこからあるべき公私役割を導こうとする。しかし、著者は経済学的な視点では解決されない基本的な問題が3つあるという。

(1)「公平性」の基準(ないし根拠)を何に求めるか、
(2)「市場(個人)」―政府」という二元論的枠組み自体がはたして妥当か。特に「共同体(コミュニティ)」というものの位置づけをどう考えるか、
(3)グローバライゼーションや地球環境時代における新たな(国家)の姿と社会保障の関係をどうとらえるか。(119ページ)

 そして、(1)についてロールズを取り上げ、「無知のヴェール」論を批判的に検討する。
 まず現実的な次元の批判として、無知のヴェールの仮定のもとでは、すべての社会保障を「リスクの分散」として捉えることになり、さまざまな制度がもつ機能の違いを無視してしまうことを言う。
 次に「より本質的」な問題として理論的な次元の疑問を呈する。無知のヴェールが「時間軸」を極限まで遡ることで「リスク」概念を極大化する一方で、「人称軸」を超えられていないことを指摘して、次のように言う。

 …「人称性の軸を超える」ということは、実質的な内容としては特に複雑なことを意味しているのではない。例えば、ここに2人の個人がおり、個人Aのほうは飢餓寸前の状態で食料を欲しており、個人Bのほうは衣食足りたうえで貴金属のアクセサリーを欲している。この二人の個人の欲求のうちどちらを優先的に充足すべきか、という問いを考えた場合、「人称軸を超えて」考えるとは、さしあたり、個人Aと個人Bという(人称的な)差異をいったん無視して、純粋に欲求の中身――この場合は“(基礎的な)食糧への欲求”と“貴金属のアクセサリーへの欲求”――を比較し、そのうえでその優先順位を考える、ということである。このように「人称軸を超える」という手続きをとると、様々な欲求がいわば“一人の人間のなかに”存在するのと同じ状態になるから、ちょうど、もし私がいま自分のなかで“食糧への欲求”と“アクセサリーへの欲求”をもっていたらまず前者から充足させていくように、基礎的な欲求(ないしニーズ)から、二次的、派生的な欲求の順に優先順位が与えられるべき、ということになるであろう。(中略)つまるところ規範(正義)とは、「異なる主体に帰属する複数の価値ないし欲求をいかに調整するか」というところに発生するひとつの統制原理なのであるから、それは先ほどから述べているように、私的な個人の立場(あるいは「人称軸」)を超えることを通じて根拠づけるという、積極的なアプローチをとるべきではなかろうか。(127〜129ページ)

 ここで考えこんでしまった。
 「人称軸」を超える、というとき、人は誰かの欲求と自分の欲求を比較できるのだろうか。あるいは、誰かの欲求と誰かの欲求を比較できるような超越的な立場に立てるだろうか。著者は福祉国家ナショナリズム性についてもミュルダールを引用したりしているのだが、「3秒に1人死んでいる」という例のキャンペーンは日本人の欲求を抑制させただろうか。むしろ時間軸や人称軸を超えたのとは別種の欲求や合理性に働きかけることで、バンドを買わせていたのではなかったか。
 ある現実を知ることは容易でも、そこから誰かの欲求を想像することや自分の欲求を抑えることは容易でない。ある欲求自体が社会的な文脈との関係のなかで生じていると反省的に理解されるとすれば、「南に生まれたら、すぐに死んでも運命と思ってあきらめる」と言われてしまうかもしれない。国内においてさえも「障害を持って生まれたときは、外に出られない生活でも受け入れる」と言われてしまうかもしれない。こうした発言に対して「想像力が足らないのではないか」と反論することはできるだろうが、「いや、自分がその立場なら絶対にそう考える」と更に言われてしまえば、もはやそれ以上の対話はできそうにもない。
 社会政策を導く規範の根拠づけというのは、人々の現実的な合意形成を意図しているわけではないのだろうか。
 気になることはもうひとつある。仮に欲求の比較が人称と時間を越えて可能になったとして、その優先順位は一般にいう低次の欲求から高次の欲求へと並んでいくのだろうか。ベンクト・ニィリエの示した「ノーマライゼーション」の原理は、8つあった。それらは何らかの「文化」や「社会」におけるノーマルを基準として示す点で自分には少し不満が残るけれど、そこは現状の底上げを目指すために必要だったと好意的に解釈しておこう。

1 1日のノーマルなリズム
2 1週間のノーマルなリズム
3 1年間のノーマルなリズム
4 ライフサイクルにおけるノーマルな発達的経験
5 ノーマルな個人の尊厳と自己決定権
6 その文化におけるノーマルな性的関係
7 その社会におけるノーマルな経済水準とそれを得る権利
8 その地域におけるノーマルな環境形態と水準

 これらは並列の関係である。それぞれを人間の欲求として言い換えることができるだろうが、順位をつけられることは、ない。そして、ニィリエは「この原理は全ての社会の変革や個人の発達に有効に適用でき、医学、教育学、心理学、社会政治学の分野の指針となり、この原理に基づく決定や実践は必ず正しいものであると言うことができる」とまで言う。
 「自己決定権」と「経済水準」と「性的関係」を同列に並べてよいものだろうか、とずっと思っていた。しかし、今になって思えば、ニィリエはあえて階層化していないのかもしれない。順位をつけた途端に、きっと低次の欲求での妥協を求められる。もちろんこの原理も現実的な合意形成に有効かと問われれば、そんな甘いものではないだろうが、比べるべきではないものを比べさせられることからは逃れられる。
 「原理」「規範的理論」としては単純だが具体的な「ノーマライゼーション」も、使いようによっては意外と役に立つのかもしれない。もちろん日々の仕事の中では、知らず知らずのうちに依拠している気がするけれど。