泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

福祉見直し

 第5章「財政危機と福祉見直し」、6章「汎福祉勢力の衰退」。
 要約。公共事業費の伸びが内需拡大のための資本蓄積として正当化され、経済界からも歓迎される一方で、抑制に転じる社会保障費。歳出の抑制とともに、大蔵省は歳入増のために消費税の導入を目指し、マスコミを通じて一般消費税導入か所得税法人税率引き上げかの二者択一を経済界に迫る。しかし、こうした動きも選挙前の自民党には無力。消費税に積極的な姿勢を見せていた大平首相も党内の反対を受け、消費税導入を断念。
 鈴木内閣のもとで第二臨調がはじまり、カリスマ土光敏夫会長によって小さな政府路線が明確に打ち出される。厚生省もこの流れに追随して、1982年の厚生白書では福祉サービスにおける市場の役割が指摘されるに至る。
 狙い撃ちされたのは老人医療と年金。病院のサロン化や過剰診療が批判され、老人医療無料化制度の廃止が提案される。診療報酬の支払い方式の変更も迫られるが、これには強力な圧力団体である日本医師会が抵抗。拠出金に関する負担増を老齢人口の増加率程度に収めるという合意に政府と財界が達したことで、老人保健法が成立して、老人医療無料化制度は廃止される。
 年金に関しては、年金の第一人者である山口新一郎が年金局長に就任。1980年に年金制度改革に失敗した経験を踏まえて、支給年齢引き上げにはこだわらず、メディアや臨調の支持を取り付けることにも成功した厚生省は、1985年の年金改正に成功。保険料の軽減が相対的に最も少なく、国庫負担の削減が最も大きい新制度を開始させる。
 こうした福祉見直し路線が進む一方で、革新自治体や労働は力を失っていった。革新自治体は自民党による反革新キャンペーンによって、バラマキ福祉のレッテルを貼られる。自治官僚は革新勢力を嫌い、東京都による財政政策としての起債も認めなかった。次第にキャンペーンは実を結び、実務能力、管理能力に欠ける革新首長のイメージが広まる。1978年、求心力を失った東京都の美濃部知事は自治省の意向にそった財政健全化計画を提出することによって、550億円の財源対策債の許可を得る。この屈辱的な無条件降伏によって、革新の火は消えた。労働運動は、1970年代後半から右旋回して賃金抑制は制度化、労使協調路線が強まっていく。