泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

大氷山の一角

車いす少女の中学入学を拒否…奈良・下市町、財政難理由に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090404-00000525-yom-soci

 奈良県下市町の町立小学校を今春卒業した、下半身不随で車いす生活を送る少女(12)が、入学を望んだ町立中学校の設備が不十分として、同町教委から入学を拒否され、養護学校への入学を勧められていたことがわかった。
 両親が4日、記者会見し、「小学校の友達と一緒に入学させてやりたい。普通学級の方が子供のリハビリにもいい」と訴えた。
 地方公務員の父親(51)や町によると、少女は出生時の脳性まひで下半身や右腕などが不自由。自分で車いすを使って少しなら移動できるが、通っていた同町立阿知賀小では介助員2人が付き添い、特別担任の元で学校生活を送った。
 中学入学手続きの前に、医師や教諭らでつくる町教委の諮問機関・就学指導委員会(10人)で審議。斜面に立つ町立下市中の校舎(4階建て)は階段が多く、施設のバリアフリー化は財政的に厳しいことから、下市中への就学は無理と判断、町教委は、3月27日に入学を断る連絡をした。
 両親によると、少女は「なぜ行けないのかな」と話しているといい、8日の入学式までに入学が認められない場合は、訴訟も検討するという。東奈良男町長は「命の大切さを考えればこその判断で、理解してもらいたい」と話している。
 東京都武蔵野市で障害者向けの学習塾「遠山真学塾」を開く小笠毅さん(68)によると、学校施設を理由に就学を拒む例は少なくないというが、「障害者の学ぶ権利と、学校側の監督責任にどう折り合いをつけるかの問題。一度通ってみて、本人や両親と話し合ってから、就学が可能かを判断してもいいのでは」と話している。(読売新聞)

 こうしたことが全国ニュースになるときとならないときの差がよくわからない。新聞社が味方につくかどうかの差なのだろうか。
 今でも全国に山ほどある事例だろうと思う。自分の周囲でも経験しているし。教育委員会が「財政的に厳しいから」というのは正直なほうで、「子どもにとって養護学校のほうがいいから」と主張するのは、多くの場合にさほど難しくない。不十分な施設環境を理由に加えられれば、ますます親は失望するだろう。そこで親が諦めてしまえば、社会的な話題にさえならない。
 関係者のコメント(あるいはコメントの「まとめられ方」)がすごい。ひとつが「命の大切さゆえの判断」で、もうひとつが「学ぶ権利と監督責任の折り合いの問題」。校舎が4階建てで階段が多いからという理由で受け入れられない「命」の大切さと、何かと「折り合い」をつけさせられる「権利」。
 同じようなことで教育課長からむかし相談を受けたときに「車イスで2階に上がれないなんて、体力のある中学生がいっぱいいるんだから、みんなでなんとかすればいいじゃないの。そういうのが教育なんじゃないの」と話して、結局その子は中学に通えた(結局、介助員はついているようだけども)。相談があったのは秋ぐらいだったか。3月27日に連絡となっているが、そこまでどんな経緯だったのだろう。
 あちこちのブログで親を責める声や学校を擁護する声が多数。みんな貧しい。

4月5日追記:
 地域の学校に行けなくたって養護学校に行けるのだから「権利」はある、と主張されることは、現行の国内法の中では避けられないのかもしれないが、そんな「特別支援教育」にどんな意味があるのだろうか。ついでに言えば、養護学校に行くことで確保される予算や人的資源と同じだけのものを地域の学校にまわせば、それで十分に対応されると思うが、どうか。
 養護学校というのは、地域の学校に通うのが難しいからと消極的に通う場所ではない。養護学校のほうが子どもにとって望ましいからと積極的に通うのである。望ましさには多様な次元があるだろうが、最小限に絞り込んで「教育的に望ましい」ところに通うのがいい、ということに異論はないだろう。そして、教育が子どもの「社会化」を担う機能なのだとすれば(本音を言えば、こうした理解はあまり好きではないが)、社会化に寄与できるか否か以外の理由が就学の判断に関与すべきではないはずだ。他の理由を就学判断に影響させることは、子どもにとって不合理であるばかりでなく、教育の機能自身を揺らがせることになると思うが、どうか。
 参考までに、一般の人はほとんど知らないだろうが、この世界では有名なサラマンカ宣言