泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「この子は障害児じゃない」が否定するもの

なんで「この子は障害児じゃない」とか軽々しく保護者に言う「事業所」があるのだろう。さらに親の育て方を責めはじめるとか、自分の理解を超えている。
 「障害」を診断のように「客観的」な基準に基づこうとするものとしてとらえずに、個人の主観が入り込むことをひとまず認めるとしよう。その支援者からみて「障害児」でない子どもがいたとして、それを「障害児じゃない」ということにいったいどんな意味があるのか。
 事業所に来るのは、親が悩んでいるからであり、子どもが困っているからだ。「障害じゃない」なら当事者の感じている困難さは幻なのか。親は「うちの子が障害児だから支援してほしい」と願っているわけではなく、ただ「困っているから支援してほしい」のである。
 にもかかわらず、ただ「困っている」と訴えるだけでは十分な支えが得られずに、あれやこれやと責任を問われる。そこで、支援を得るための根拠として「障害」というラベルを徐々に、懸命に受け入れながら、やっと必要な支援が少しばかり得られるようになる。
 そのようなタイミングで「障害児じゃない」なんて言われたら、もう何もかも否定されたようなものではないか。他者や社会に支援を求める自分自身が間違っていると言われる。どこに向かうことも引き返すこともできない。ただ、その場でうずくまる以外にないではないか。
 それを言ったのが、この業界にはけっこうたくさんいる「保護者から支援者になった人」である、ということに、改めて「私は自分の子どもをちゃんと育てた」という自信は、本当に支援者としての成長を阻むと感じる。
 ああ、まったく不快だ。相変わらずろくな事業所ができてこない。