泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 この1週間で学童指導員との会議が3回。
 この混沌とした状況を、実践のための理論や方法を研究している人にぜひ知ってほしいと思う。もう、なんというか、いわゆる「それ以前の問題」という感じなのである。ミーティングマネジメントの問題とも少し違う。会議での発言量や発言内容を通じて、会議で検討すべきこととは違う部分についての思惑がたくさん働いている。アルバイトの地位の強化とか、学童内でのトップ争いとか。
 会議自体は昔からずっとやってきているが、年末に指導員が異動したところや、この数ヶ月の間にお互いの力量を見定めながら力関係が変わり続けているところなど、なかなか落ち着かない。そんな会議のファシリテートも大変だが、毎日そんな権力関係のうごめく中で仕事をしている、法人の加配スタッフは本当によくやってくれている。
 今のところ、熱意を示した者が力を得るような構図になっている。それなら結果的に内容は向上していくだろうから、いいのではないかと思えるが、方向性を誤った熱意は本当に扱いづらく、みんなが手を焼いている。「できることがよい」「みんないっしょにいられることがいい」「さまざまな苦労を経験しながら人は成長する」などの妄信。こちらから自閉症について説明を繰り返しても、研修を受けても、変わらない。変わろうとしない。変わることは、きっとこれまでの長年の指導を否定されることと同じなのだ。自閉症は「障害特性」を盾にできるが、単に「知的障害」としかいえない場合はもっと理解されない。理解しようとしない人が辞めて、理解しようとする人が仕事を続けてくれるとよいのだけれど、そうでもない。しかも、相手を雇っているのは行政である。こちらから影響を及ぼすにも限界がある(ずいぶん人事には口をはさませてもらったが、募集かけても人が来ない中で雇い主としての行政の弱い立場もよくわかる)。
 それでも会議は続く。次年度、新入生はあまりいない見込み。それならば、じっくりと指導員との関係を構築していこうじゃないかと考えようにも、指導員もどうせまた激しく入れ替わるに決まっているので、また4月になれば振り出しに戻るのであった。こんなことをもう5年もやっている。
 たぶんこんな環境で仕事しているから、自分は最近のソーシャルワーク理論研究に対して好意的になれないのだろうと思う。こうした事態に対して「社会福祉研究」「社会福祉学」をやっている人は、いったいどのような知識が有効だと示すのか、ぜひ聞いてみたい。アドミニストレーション? まさかね。