泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[近況]次年度のことを考えつつ、院ゼミの惨状を嘆く

 少し先のことを見据え始めたモード。いや、新しい請求とかも準備を進めなければいけないのだけれど、そろそろ次年度のことが気になりはじめている。とりあえず年齢や機能別に必要とされる各種支援と地域の社会資源の現状を整理して、職場内で共有したりもしているが、なかなか複雑である。この地域の事業所や関連団体などすべてが集まって、今やっている仕事やこれからやるべき仕事の役割分担をゼロから考え直したら、もっと合理的にできそうな気がするが、どこもそんなこと考えてくれそうにないし、簡単にはいかない。おかげでとてもバランス悪い。自立支援法とは無関係なところで少し動いたりもしているが、どうなるかはまだまだわからない。
 今日は夕方から大学院。書庫に『ソーシャルワーク研究』の昨年度のバックナンバーをコピーしにいったら、最近よく考えていたようなテーマが特集されていて、少し驚く。が、内容を読むと自分の研究とはあまり重なりそうにないので、妙に安心する。まだまだやるべきことはたくさんありそう。
 それにしても、通巻120号の「インクルージョン」特集の中でのソーシャル・インクルージョン概念の使われ方って、ほとんどがおかしくないか、というか、ほとんどがソーシャル・インクルージョンについての話ではなくて、完全に障害者教育の文脈の中で言う「インクルージョン」の話。巻頭言は「ソーシャルインクルージョン特集に寄せて」となっているのに、特集タイトルは「ソーシャルワークインクルージョン」。結局、「ソーシャルインクルージョンについて書いてください」と頼んでも、書ける人がいなかったということだろうか。集まってきた論文を見て、「この内容ではソーシャルインクルージョン特集とは言えない」ということで変更したのかもしれない(邪推)。某論文では障害者福祉にも触れられているが、その大雑把さはひどい。地域で暮らすこと=ソーシャルインクルージョン。そして「・・・と考えていいのではないだろうか」という逃げを連発。自信がないなら書かなきゃいいのに。もし院生がこんな表現を繰り返したら、査読で酷評されるに違いない。
 ゼミでは、マスターの発表にぐったり。誰もコメントしないので、結局自分が口火を切らなければいけない。きっとイヤな奴に映っているに違いない。でも、学部学生の卒論とも大差ない内容なのだから、何も言わないわけにもいかない。教授や他のドクター院生はうなずきながら聞いている。そして、後から「lessorさんが言われましたように・・・」「lessorさんに付け加えて・・・」。みんなお願いだから、最初から自分で言ってくれ。
 質問しても、こちらが使う言葉の意味がわからないみたいだし、こんなところでもわかりやすく話すことを心がけなければいけないのか・・・。大学院なのに。「児童養護施設の機能と、そこで行われるグループワークの機能の関係は?」って、そんなにわかりにくい質問だろうか? どう考えても君の論文はそこが中心的なテーマだろう。学会等でしばしば発表者に投げかけられるようなひどく筋違いな質問はしていないつもりだ。「研究の目的」として最初に書いていることと、論文の結論が全然違うものになっているマスター論文もそろそろ見飽きた。調査をやらなきゃいけないという義務感だけで調査をして、結論と全然結びついていない論文もそろそろ見飽きた。君は先に結論決めてるだろう。正直に言いなさい。
 ゼミ終了後、留学生の歓迎会につきあって、先ほど帰宅。基本的に飲み会は苦手なので、なんだか疲れた。明日は朝から一日学童。