泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[障害者支援]介護と親密性

「進化する介護」in仙台(What's ALS for me)
http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20060322
 コメント欄がとても盛り上がっている。
 とても興味深いのだけれど、こんな優秀な人たちの議論の中でコメントする勇気は全くないへタレなので、ひっそりとトラックバック
 でも介護の社会化については、少し考えてみたいように思う。
 「介護はプロに、家族は愛を」というスローガンを有名にしたのは、石川治江さんである。ずいぶん以前のことになるが、彼女が知的障害者分野の某フォーラムで講演し、そこに1000人以上はいたであろう地域生活支援従業者たちを「挑発」したのをよく覚えている。支援におけるフィードバックの重要さやISOの取得について話し、「知的障害者の地域生活支援分野なんて、ケアの質を向上させるために何もできていないじゃないか」というようなことを言って、攻撃していた。彼女はもともとはっきりした主張をするが、その場ではとりわけ確信犯的に攻撃的だった。福祉職が「悪い労働条件でも一生懸命やっている」ということを逃げ口上にして、具体的に支援の質が上がるための努力を欠いているとすれば、それは彼女が目指す支援にとって何よりも有害であり、何より許せないことだったのだろう。
 彼女は介護は「行為」であるという。ここでの「行為」という表現は、支援の質は支援者の「気持ち」とは無関係だ、と主張するために使われている。たぶん「技術」と置き換えても差し支えが無い。すなわち、気持ちがあるから技術があるわけではない。家族は「気持ち」はあるかもしれないが、技術がない。技術がない介護を続ければ、介護をする側、受ける側の双方にとって負担が大きい。その結果、関係性がまずくなれば、もともと持っていた「気持ち」さえも失われてしまう。だから、介護は技術をもつプロがやればよい。そして、家族の機能は「愛」を注ぐことに特化される。同じような主張は上野千鶴子などの論者からもあり、「代替できないものとしてそれぞれが存在する必要がある」という(『現代思想』2002年6月号82ページ)。介護の社会化というとき、特別養護老人ホームだとか入所施設の事例を出すことはあまりしないのは、家族が固有の機能を果たしていることを前提にしてこその「介護の社会化」だからなのだろう。何せ「施設の社会化」なんて言葉もあるくらいだから、たとえ「技術」があったとしても、それだけでは豊かな生活とは呼べないという認識は広まっている。
 こうした議論は「ボランティア」に関しても可能であり、仕事ではないボランティアだからこそ愛情が注げると言う立場もあれば、支援が慈善博愛の世界に陥るのを危惧してボランティアに愛など必要ない、という立場もある。ボランティアへの意味づけは多くの場合、「施設職員」とか「家族」などに相関してなされるので、多義的になりやすく、混乱もしやすい。ボランティアが私的なのか社会的なのかも議論の文脈によって異なる。。それと比べると「家族」の機能は一般にもう少し絞り込まれて理解されている。「家族」だから「愛」がある、というのも次第に幻想として扱われるようになるのかもしれないけれど、そこまで問い返すときりがない。一般的に石川さんの主張は、支持されそうに思える。
 これまでも何度も書いてきたことだけれど、自分の仕事について考えるとどうか? 自分の仕事はもはや「介護」ではないように思う。「支援」と呼ぶのさえ適切かどうかわからない内容の部分がある。知的障害分野の場合、支援者に寄せられる期待は、本人のできない部分を補うとか、代わりにするとか、環境をわかりやすく提示するとかいうような技術的な水準にとどまらない。うちのヘルパーが利用者家族から期待されているのは、若者として利用者と近い目線で(友達のように)楽しく過ごしてやってほしい、というなんとも「介護」とはかけ離れた機能である。あるいは、いろいろな人と関わることで、自分の気持ちを伝えられるコミュニケーション力をつけてほしい、とか。実際に利用者もヘルパーが若ければ若いほど喜んでいたりする。学生たちの技術的な水準は、養護学校の教員などと比べれば望むべくもない。しかし、ある種の技術に限って言えば、親密さとの間で天秤にかけられてしまう。まずは利用者本人から親しみを持ってもらえることが大切で、技術は少しずつ身に着けられればいいと言われたりもする。こうした主張は主に保護者からなされるので、利用者本位かどうかははっきりしない。利用者本人からの評価は確認できる場合もあれば、確認するのが難しい場合もある。
 こうした事情は全く知的障害分野に独特のものかと思っていた。しかし、トラックバックした日記中のコメント欄でmojimojiさんによって示された「機能が少なくなってくると、介護で使用する身体接触や言語行為のチャンネルが、親密な関係を遂行するときに使われる身体接触や言語行為のチャンネルが重なってくる」という表現を見て、「何かが似ている」と思った。何だろう。
 知的障害などメンタルな障害の場合、心身の機能に何らかの弱みを抱えている結果として社会との接触、社会への参加が大幅に限定されることになる。多くが「親密な関係」というものを家族以外の誰とも結べていない。機能の少なさゆえに「親密な関係」を欠いているという理解がはじめから本人や家族、さらには支援者にもあるだけに「親密性チャンネル」と「介護チャンネル」と重なっているところから支援がスタートしてしまっているのではないか。出発点が逆といってもよいのだろうか。
 それが自分たちの支援の出発点であるなら、ゴールはどこに置けばよいのか。ここでずっと苦しんでいる。単純に反対向きに考えれば、それはふたつのチャンネルをずらしていくことになる。それは機能の少なさゆえに得られていないもののうち取り戻せるものを少しでも取り戻すための支援を活性化させることで、介護チャンネルの幅を広げていくことかもしれない。得られていないものを得るためのアプローチは心身機能の向上にはとどまらない。もっと社会的な力の向上であり、多様な部門の働きかけが必要だということは漠然とわかる。そうやって得られたものもまた本人のもつ機能と呼んでよいのかもしれない。
 ただ、メンタルな障害分野で働く多くのヘルパーはそのような目的をもって支援にあたるように教育を全く受けていない。こうして知的障害分野において「関係性」ばかりに期待が寄せられ、若いヘルパーばかりが求められる支援から抜け出すために必要なのはやはり技術なのだ、ということになる、のか? それでも、やはり入り口は「親密な関係性」なのであるのだから、相変わらず利用者側からのヘルパー属性(若さ)の選択はシビアである。入り口を変える方法はないものか。ここを変えられないと、これからの制度的な条件下での支援というのは本当に困難になってくるのだ。
 全然まとまっていないけれど(書いているうちに介護の社会化の話からずいぶん離れてしまった)、法人設立以来で最長のガイドヘルプを寒空の下やってきて、腹痛もしているので、もうこれで更新して寝る。また考えよう。