泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

認識論

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈下〉経験知の現在

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈下〉経験知の現在

野宮大志郎「序章 新しい〈社会〉への知を求めて 〜経験的研究からの挑戦〜」
 この1年か2年ぐらい、自分が最も関心を持って考えてきたことが、わかりやすくまとまっている。社会現象を認識するときの方法やその前提に関する議論について、社会福祉研究だともっぱら「量的研究か質的研究か」ぐらいの論点しかほとんど出てこないが、

 研究対象とする「社会的現実」とはどのような性質のものなのか。自然科学における対象のようなけん堅固なものを想定すればよいのか。その社会的現実を「観察」するとはどのようなことなのか、「観察」する主体はどこに立っているのか、「観察」は本当に可能なのか、観察結果を「一般化」できるのか、いやその前に「一般化」はしてよいことなのか。「因果関係」とは何か、物理的連鎖を想定すればよいのか、それともそのようなことは無理なのか。「量的手法」と「質的手法」の両者は融合可能か、融合は無理なのか。学問と「実践」はどう関わるのか、学問は社会的実践から孤高の位置を保ってよいのか。われわれは研究を通して知を生産する。この知は積み上がっていくのか、それとも一回性のものなのか、知識を積み上げるというプラクティスをどう評価してよいのか。(12ページ)

 このぐらいの広さと深さがほしいところである。この種の議論がなぜ必要なのか、ということをうまく伝えられるようにすることが今後は大事か。今のところ「そんな難しい話なんてどうでもいいじゃん」というのが、社会福祉研究者の大多数だろうし。