泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「つながり原理主義」の帰結

 子どもたちの居場所が必要だ、と言われる。それを否定する人はあまりいない。
 学校があって家庭があるだけではまだ足りないから、求められる。求めているのが子ども自身なのかどうかは、よくわからない。「僕に居場所を」と訴える子どもはあまりいないからだ。必要性を言うのは大人である。もちろん根拠がないはずはなく、少しばかり見聞きした成功体験も背景にあるのだろう。
 居場所を作りたい、という大人たちの希望にどんな風が吹いているかと言えば、ずっと追い風だと思う。学校教育でも生涯学習でも地域福祉でも子どもの貧困支援でも「居場所」やそれに類するものがバックアップされるような施策がある。既存の社会資源やネットワークの中で解決されていない問題があるとき、新たな「居場所」は魔法の箱として期待を集めていく。トップダウンかつ縦割り行政の中でそれぞれ中途半端につけられた「居場所」関連予算は、何ら新奇性を示せることなく、既存事業を当てはめるように消化されて終わることも多い。
 自治体で行政計画を策定しようとワークショップを開けば、居場所が必要だという結論めいたものが出て、計画に盛り込まれる。都市計画とか福祉計画とか分野別にいろいろあるが、どこでも「つながり」が大事だとされる。そして、地域の中で人と人との結びつきが弱まってしまったという言説が「居場所」の必要性を支える。そもそもまちづくりの計画に参画しようとする人はそういう思いをもつ人たちであろう。地域の人間関係とかわずらわしい、という人はあまり加わってこない。
 ボトムアップの居場所づくりとトップダウンの居場所づくりが合流すれば、実現するしかないように思える。しかし、うまくいっていない。まちづくりに熱心な大人たちのたまり場になるか、退職教員が子どもたちに体験を積ませようとする場になるか。子どもの貧困対策ではじめたところでさえ、子どもが集まってこないという事例を聞く。子どもは正直である。自ら行きたいと思えない場所には、行かない。
 子どもたちのために役立ちたいという大人の思いは、役に立てるはずだという信念に変わり、大人が加わる居場所こそが子どもの閉じられた生活を地域社会へと開いていくものだという主張へとつながっていく。人と人とのつながり。共生。インクルーシブな地域社会。多様性。「私の望む社会の形」が、あるべき子どもの居場所へと投影される。
 学校や部活での関係性をリセットできる場を必要とする子どもがいる。子どもよりも大人と接するほうがラクに過ごせる子どもがいる。日ごろの学校での関係性に傷つき、他者への信頼をゼロから築き直す足場が必要な子どももいる。「居場所」に求められるものは、複雑だ。その言葉のやさしさに反して、丁寧に検討された理念とそれを具体化するためのスキルがいる。漠然とした「つながり原理主義」は、無限の可能性を持っているようで、結果的に何も生み出せない。
 子どもの貧困とか不登校とかに足をつっこむようになって、8か月ぐらいが経った。ずっと支援してきた「障害児」と比べたとき、子どもが「学校でも家庭でもない場」に望むものはとてもわかりにくいと痛感している。子ども自身にもわかっていないのかもしれない。もちろん親にもわからないのだろう。きっと障害児についても「わかった気」になっているだけだったのではないかと疑う。子どもが親によって「預けられる」という関係性は、支援者を勘違いさせるのに十分である。子どもが主体的に選び取れるような条件が整えば、障害児の居場所づくりとはどれほどの多様性を達成しなければならないだろうか。
 明日が地元の子ども・子育て会議なので。頭の整理をするために、書いた。

認知を変える方へ

 相変わらず、とにかく生きづらく。
 攻撃にさらされると大変もろく、他のことが何も考えられなくなり、仕事に負の影響が及ぶ。
 この問答を読んで、少し救われた思いを抱き、

ミャンマーで尼になりました

ミャンマーで尼になりました

 回答者の著作を読んで「瞑想」というのがとても認知行動療法っぽいと思うようになり(もっと「神秘的」なものと誤解していた)、 こんなものを読むに至る。やはり宗教的なものに寄りすぎるとついていけない感がある。認知に関するところだけでよい。

一切皆苦

皆に読んでもらえるものを書きたい。けれども、自分に可能な限りの努力をしながら、なおも責められ叱られ、心身の余力がない。

日々の仕事へのモチベーションさえ減退していく。誰もやりたがらないことだけ自分の仕事。地域でも、組織でも。にも関わらず、叩かれる。すべきことができていない、偉そうに福祉を語るなと。

眠いのに、眠れない。罵倒と詰問のメール文面がずっと脳裏に焼き付いて離れない。床のなかでブログを更新して気を紛らわす。

限界まで眠くなれば、必ず眠れるときは来る、はず。

「ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んで

 偶然に書店で見つけた沖田×華の新作。ノンフィクションコミックエッセイ。原作者である君影草さんが、本作に登場する子どもの母親である。ちなみに、原作は『はざまのセイカツ』というタイトルで、ウェブ上に公開されているマンガ。メジャーなマンガ家が描き直す「ワンパンマン方式」とでも言おうか。
 障害児の子育てについて親の目線で描いたマンガはこれまでにもいくつかあったと思うが、いわゆる「ボーダー」の子ども(と親)の苦難を描いたものは読んだことがなかった。医学的な診断としては「障害」とみなされないが、学校生活や社会生活上でうまくやっていけない人はたくさんいて、その人たちは境界線上にいるという意味でしばしば「ボーダー」などと呼ばれる。
 障害に限らず「どっちつかずである」という状態は、社会制度の隙間に落ちやすい。あらゆる支援の受給要件なんて「必要かどうか」で決めればよいはずなのに、標準化しようとして支援の必要度とは別の基準を設けた結果、「ひどく困っているとみんなわかっているのに、何も対応されない」という事態が生じる。制度的なネグレクトと呼んでもよいだろう。本作では、このネグレクト状態に母親がひとりで立ち向かっていく様子が描かれている。
 最も多くのページが割かれているのは中学への就学問題だった。普通学級での学習が難しいのに、IQが高いために療育手帳(東京都は「愛の手帳」)が取得できず、特別支援教育の対象として認めてもらえない。小学校からは手帳をとってくるように急かされるが、検査を受けても手帳は出ない(広汎性発達障害の診断は受けられている)。担任や管理職から転校を勧められたり、行ける中学校がないからと専修学校フリースクールを探したりする。このプロセスにほとんど「支援者」と呼べる者は出てこない。一方で、この種のストーリーにはおなじみの「クラス運営にとって邪魔な子どもを積極的に排除したがる、すがすがしいくらいのクズ教員」は出てくる。
 おそらく就学の仕組みや運用に地域差はあるのだろう。このマンガに描かれている状況は、かなり異様である。そもそも「手帳を持たなければ、特別支援学級や特別支援学校に行けない」なんてことはない。療育手帳に「知的障害」の有無を決めるような効力はなく(そもそも子どもに手帳をとらせたくないと考える保護者もたくさんいる)、知的な発達の遅れや偏りから普通学級での学習に困難があれば、特別支援教育は受けられる。が、少なくとも、原作者が経験したのは「手帳がなければ、中学では普通学級にいるしかなく、サポートも受けられない」というよくわからないルール運用だったようだ。こうしたローカルルールのようなものは本当におそろしく、保護者や教員個人が抗うのは難しい。
 中学校への特別支援学級進学にあたっては、中学校に「嘆願書」を出すことを教育委員会が保護者に助言している(そして、この嘆願は成功する)。これは「それぞれの学校が子どもの就学について教育委員会よりも権限をもっている」ということを意味する。そんなバカな話があろうか。各中学校が支援学級での受け入れ(や普通学級でのサポート)を拒否したら、実質的にどこにも通えず、教育委員会も親といっしょに残念がって終わりなのだろうか。教育行政としての存在価値を自ら放棄している。
 障害者差別解消法も施行されていくし、ここで描かれているような事態はおそらく解消されやすくなると信じたいのだが、自分の立場から気になるのは「これほど苦しんでいるプロセスを併走する支援者が誰も出てこない」ことだ。地域の学校で必要な支援を受けながら学んでいくことが当たり前である、という価値観が教育制度に組み込まれていっても、それを実現するために学校が動こうとしないときに、親はたったひとりで強大な学校組織、教育委員会に立ち向かっていかねばならない。
 相手が「障害福祉サービス」であれば、ひどい事業所があれば、契約解除してもよいし、相談支援事業所や福祉行政にタレこんでもいいし、都道府県社協にある運営適正化委員会に苦情を入れてもよい。社会資源の少ない中だと支援者の優位性は揺らがないかもしれないが、苦境から抜け出すための選択肢はいくつかあると言える。
 しかし、子どもを通わせている学校とのあいだで親が行き詰ったときの仕組みは何もない。この深刻さに教育制度(福祉制度でもよいけど)がどう取り組んでいくのか、が問われている(「障害」「ボーダー」に限らず、「不登校」「いじめ」などについても同様の指摘はできるだろう)。「スクールソーシャルワーカー」に期待したい気もするが、今の配置状況や身分を考えると、まだまだ現状は厳しい。学校の中に所属しながら、どこまでの動きができるか、という課題も残る。
 「ボーダー」の子どもは成長とともに、また違った問題が生じてくるだろう。ここで描かれたのは中学校までだ。あとがきによれば「今回のマンガの続きはこの本が売れたらまた沖田さんが描いてくれるとのこと」らしい。「ボーダー」で悩む人たちや学校との関係で苦しむ人たちの共感を呼び、続編が出版されることにも期待したい。