泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

まとめられることのうらやましさ

 読み終わっていたが、何かを書く元気が出ないまま、5月に。

介助者たちは、どう生きていくのか―障害者の地域自立生活と介助という営み

介助者たちは、どう生きていくのか―障害者の地域自立生活と介助という営み

 自立生活運動に関する本はずいぶんたくさん出ており、取り扱われている主題の一部はそういう意味において珍しくはないのだけれど、それでもなおこの本に価値があるのは、「自立生活運動」内部の様々な立場と介助モデル、事業所運営モデルの関係について示したところや、自立生活センター系の介助労働者の実態について書いたことだろう。
 そして「障害者の自由と介助者の自由はトレードオフ(326ページ)」とあるように(理念のある)支援者の葛藤をきちんと書いた点で、自分のような仕事をする者にとっても共感できる部分は多い。資格化の流れやある種の制度の使いにくさについても多くは同意できる。そのあたりは生々しい政治がからむ話であり、積極的に内実を書くことは避けられたのかなとも思えるけれど。
 著者の立場からして、重度訪問介護を中心とした運動や事業所運営についての記述が圧倒的に多くなるのは当然である。それゆえ筆者自身が何度も差しはさんでいるような「これがすべてではない」という注意にはしっかり気を払っておきたい。自立生活センター系の事業所も内部で多様であることはこの本を読むとわかるわけだが、非・自立生活センター系事業所の多様性はそれ以上のものである。誰かの支援をするときに大切となることは、相手の障害種別が何であろうが、かなりの部分において重なるものだ。だからといって、重ならない部分のわずかな差異が大事でないという話にもならない。
 とりわけ、知的障害関係は「労働」「日中活動」の保障を求める運動や実践があり、そこから派生して「地域生活支援」の取り組みが拡がってきたわけだ。その過程には「余暇保障」的な意味づけから生まれたものもあったし、「親亡き後」を不安視したものもあったし、「放課後」を考えたものもあっただろう。家族の休息にポイントを置いた「レスパイトサービス」を経由して支援が広がっていった地域も多い。これらの様々な目的意識を自立生活運動と比較して「当事者本位でない」とか「生活にとって本質的でない」と評価することもできるだろうが、知的障害者支援にとっての「当事者本位」をめぐる難しさは昔も今も同じであり、より「問い」を立てやすく、取り組みやすい課題から答えを出そうとしてきたとも言える。
 知的障害者の「地域生活支援」を志した人々にとって、何かひとつのやり方のモデルがあったわけではなかっただろう。10年ほど前の状況を思い返しても、わずかな補助や私的契約に基づく支援をもとにして、各地でより良いシステムを確立させるための方法が試行錯誤されていた。その中には、作業所・通所施設による取組もあったし、レスパイトサービス的なものを中心に行う新興の事業所もあった。「同じ金額で使い方自由」なんてやり方をとるところだってあった。多様な実践は、その後も「ひとつのモデル」を欠いたまま、支援費制度に突入して、さらに自立支援法がはじまって、制度設計と運用の曖昧さもあり、いっそう多様性を極めた。多くの事業所のありようには、それぞれの地域の事情(事業所の歴史、支給決定の傾向、関係者の制度理解、その他もろもろ)が色濃く反映されているはずだ。たとえ同種の支援理念を掲げていても、事業所の運営モデルは同じにならない。運動の方向性も拡散してしまう。自分にとってのこの業界の現況はそういうものである。
 知的障害関係の運動の歴史は、もっと複雑で書きにくいものであるように思え、誰かがすっきりとまとめたり、出版したりするのはあまり期待できない気がする。この本のように、何らかの柱をもって「まとめられる」というのはうらやましい。せめて「知的障害者の介助者たち」についての丁寧なレポートがもっと生まれてほしいなあと思う。