泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

職員の家族と話して今さら気づかされたこと

 いろいろとつらいことばかり続くのだけれど、書き留めておきたい話。
 うちの法人はずっと新卒の雇用ばかりしていた。もともと学生ボランティアグループから発展した組織なので、慣れ親しんだ学生ボランティアをそのまま職員として雇用する、というパターンは自然なことでもあった。
 そんな組織が、はじめて学生ボランティア以外を常勤職員として採用した。求められる能力が新卒には高すぎる内容だったからだ。求人をかけても零細NPOのぱっとしない雇用条件にすぐれた人材が集まってくることはなく、最後は人からの紹介。信頼できる人から紹介されたから、信頼して雇う。そんな感じだった。
 履歴書を見れば、ずいぶんとまわり道をして、この仕事にたどりついていた。自分より年上であるが、求めていた資格を取得したのはこの数年である。転職ができるだけの家庭環境に恵まれていたとはいえ、全く畑違いの仕事から移ってくることは勇気も努力も必要だったろうと思う。
 雇用をはじめて1年足らず。そのご家族と話す機会が生まれたのは、病室だった。
 まったく想定していなかった急な入院。職場の混乱もご家族の混乱も激しく、すぐには会いにも行けなかった。重篤な状態。本人と話すのは難しく、今後についても家族と相談していくほかない。経済的な問題もきっと不安だろう。いまの法人としてできる限りの対応を考えて、足を運んだ。
 しかし、病室でご家族から聞かれた話は、少し予想していたものと違っていた。もちろん病状や今後の手続きについても話したが、ご家族から語られたことの多くは「働きはじめて活き活きとしてきた本人」の姿だったのだ。
 うちでの雇用は、本人にもご家族にも「助けてもらった」と受け止められていた。取得している資格や年齢からすれば決して良い雇用条件ではない。常勤職員のポストが少ない職種ではあるが、こちらとしては「働いてもらえてありがたい」ぐらいの気持ちだった。働き始めて生活はあわただしくなったものの、家族から見た本人はとても幸せそうで、銀行からタダでもらってきた封筒に現金を詰めて渡しているような給料を喜んで持ち帰っていたとも聞かされる。
 仕事場で考えたこと、仕事を通じて出会った人たちのこと。家の中でも話題にして、ときには議論もして、これからの夢を語っていたようだ。「子どもたちのためにどんな社会が必要か」「子どもたちのために自分には何ができるか」について語り合ったと話す家族は、もう自分にとっても「同志」であるように見えた。
 日々、子どもたちにとってのNPOを考えながら、支援者の人生についても考えてきたつもりだった。それでも、まったく新たな人生を歩み出そうとする者にとって、自分たちの活動がどんな新鮮な喜びをもたらすのか、ちっとも自分は思いを馳せられていなかった。その職員の家族と出会わなければ、気づかされることがないままであったかもしれない。
 ライフワークと呼べる仕事を中年になってから新たにはじめられる幸せと、そのような環境を生み出せる可能性としてのNPO。思いがけぬ形でそれらの価値を自分に教えてくれた職員は、今も病室で闘っている。その意思に自分は応えていかなければいけないのだろう。課されたものは重い。