泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

マッチポンプを疑おう

“支援”の社会学―現場に向き合う思考

“支援”の社会学―現場に向き合う思考

その第5章。新井浩道「繋がっていかない利用者への支援」,114-137.
ケアマネジメントの限界を指摘して、ナラティブの有効性を示そうとするもの。

ケアマネジメントをとらえるうえで重要な立脚点になるが、ケアマネジメントは認識論のレベルでは「システム理論」を援用した技法だということである。ケースマネジメントは、ニーズと資源を結びつける作業を通して、客観的に認識可能と考えられるシステムを査定し、そのシステムの変化を計画するとされる。(118ページ)

「査定」→「措定」の間違い? 少なくとも「査定」はできないだろう。まあ、それはともかくとして、その後、「システム理論」「システム」などの言葉は一度も出てこないまま、

ソーシャルワークでの技法も複数あるわけだが、ここで問題となっている「繋がっていかない」拒否的・消極的利用者を支援するには、それに適した技法が必要である。それは現在の日本のソーシャルワーク理論の主流となっているシステム理論的アプローチでは十分とはいえない。そもそもシステム理論的アプローチはすでに見てきたようにケアマネジメントの理論的ベースとなっているものの、支援の過程の理論的な説明としては有効だが、実際の介入場面での説明としては弱い。(124ページ)

 ここでいう「システム理論」って、いったいどのシステム論のことなのだろうか。それがわからないゆえに「認識論のレベルでシステム論を援用」の意味もわからない。よく思うのだが、社会福祉研究者による「認識論」という言葉の使い方は、ほとんどが雑だったり、間違ったりしている。方法論も認識論も存在論もごちゃごちゃになっている。大学院でさえも習う機会がない話だから仕方がないのかもしれないけれど。そして、日本型ケアマネジメントがいかなる「認識論」的前提に立っているか、なんて議論も聞いたことがないから、この議論はさらに意味不明になる。その後の論の展開を見ると、問題の社会的構築性とその書き換えの意義を強調したいようなのだが、それだったら家族療法の中で「問題を維持させているコミュニケーションのパターンを変える」こととして、システム論的に説明できてしまうのではないだろうか。「どう変えるのか?」という技法が具体的じゃないのだ、というのであれば、それは認識論的な問題でもなんでもない。たぶん、システム論vsナラティブ、という図式がつい浮かんでしまうから、こうなってしまうのだろう。
 著者が経験したとされる事例も結論も、単純すぎて不満。支援者の前に現れる人々であっても、生活のすべてを「問題」にとらわれて生きているわけではない。ただ、支援者の前では「問題について話すべき」と思うから、何かを支配的な「問題」と捉える話が中心になるというだけだろう。彼ら彼女らは、ソーシャルワーカー以外の人々の前では、どんな話をしているのかはわからない。支配的なストーリーを相対化させてオルタナティブなものに書き換えようというが、実は支援者が支援者として現れるということそのものが特定のストーリーを支配的なものにさせてしまうのではないか、物語論的なソーシャルワークって実はマッチポンプかもしれない、すると必要なのは「ソーシャルワーカー」じゃないのかもしれない、ぐらいのことまで言ってもらえたら、すごく社会学っぽいのに(自分はもともとボランティア論やっていたので、その意味でもこういう議論を展開させていくと面白い)。
 ちなみに、自分と同世代の社会学者が中心となって書いた本。この章だけが、唯一「社会福祉学」の研究者によるもの。