泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

地域で生きねばならない理由は何処に

 養護学校の先生たちを前に、地域生活で必要な力について話してくれと言われたのは数週間前。
 レジュメを作りながら、困ってしまった。養護学校というのはまさにそのような力を身につけるために教員が日々努力している場所だと思っていたから。算国理社に力を入れているとも思えないし、体を動かしたり、手先を使ったりすることを通じて、生活のための力をつけていかせようということなのだろうと思っていた。そこに将来の「就労」を考え含めたとしても、そのための力をつけていく重要性は嫌というほど教員に理解されているはずである。一般就労にせよ福祉的就労にせよ、卒業後の進路選択は最重要課題だ。今さら「働く力をもっとつけないと」なんて、教員に話しても仕方がない。
 「働く」以外に、「地域で生きていく」というために必要な力は何か。少し前に「地域」論をここでも書いたけれど、そもそもあるべき地域生活とはどんなものか、を確定させないことには、必要な力に関する議論なんてできない。そこで、学齢期の子どもの地域生活について「ノーマル」なあり方を考えることから始めようとしてみた。しかし、どうもうまくいかない。なぜか。
 あるべき生活のモデルとして、世間の小中学生や高校生の生活を意識したとき、彼ら彼女らが「地域」に生きている、などと言うだけの理由がほとんど存在しないからである。この国の子どもたちの一般的な生活はどんなものか。「第1回子ども生活実態基本調査」(Benesse教育研究開発センター、2005年)というものがある。Benesseによる調査だが、回答しているのはBenesseによる教育サービスの利用者というわけではなく、学校を経由して配布回収したもので、自分の知る限り、同様の調査はあまりないようだ。学力ばかり調べないで、こういう調査をもっとすればよいのに。
 学校に行っている間は、特に「地域」などと言う必要もない。問題は、放課後の過ごし方である。調査によると、中高生のおよそ8割は「部活」に参加している。中学生の平均活動日数が文化部4.3日、運動部5.2日。高校生は文化部3.9日、運動部5.8日。1回あたりの活動時間は2〜2.5時間。授業を終えた後、部活に行ったら、あとは帰宅するしかないだろう。運動部については、土曜か日曜も部活に通っていることになる。特に高校の運動部の拘束日数は多い。次に、「学習塾」。通塾率は、大都市部なら小学生39.4%、中学生54.5%。郡部でも小学生(4年生以上)17.0%、中学生44%が通塾。
 さらに、小学1〜3年の約2割が「学童保育」利用。長期休暇を含むと、学校で過ごす時間より学童保育所の方が長く過ごしている場合さえある(このデータは「全国学童保育連絡協議会実態調査」2007年、より)。年齢が低く、保護者が働いていれば、放課後の行き場所は「学童」ということになる。
 要するに、障害児支援業界の周辺では「地域の子どもたち」のような(意味のわかりにくい)表現がしばしば用いられるが、放課後の子どもたちは「地域」になんていない。みんな「学校」か「塾」にいる。あるいは「学童保育」(ちなみに、学童保育所の47.5%は「学校施設」利用、というおまけつき)。そのことはさほど問題視されていない。部活動でスポーツに打ち込む生徒はとても健全とされているようだし、学童保育はもっともっと数を増やして時間も延長しろといわれ続けている。
 そんな中で障害児にとって「地域」に何を期待すればよいのか。何を期待してよいのか。そして、何を期待したいのか。「障害児にも部活を」とか「障害児にも学童を」と言って実現すれば、「地域」にインクルードされた、という話になるのか。とてもそんなふうには思えない。それは単に生活の場や内容を「多数派」の子どもたちに合わせようとしているだけでしかない。それで充実する生活、救われる家庭はたくさんあるに違いないが、「地域生活支援」を自称する人々がそれで満足してはならないのではないかと思う。
 さらに考えていくと、結局のところ「地域」に込められた思いというのは「社会資源に選択肢がある」とか、すごくありふれた話に行き着いてしまう。「選べる生活」「選べる福祉」。それもまた福祉の目指してきたことだ。管理の象徴としての「入所施設」とも対極にあり、多様な人と出会える場でもある。もし、ここから子ども自身に求められる力が何であるかを導き出せと言われたら、どうだろうか。「選ぶ」にも力はいる。選んだ中でうまくやっていくにも力はいる。
 「社会性」と総称される力がある。はっきりした定義があるのかどうかは知らない。ただ、社会のルールに従えることは大事とされる。多少の迷惑を周囲から大目に見てもらいつつも、何でもあり、にはならない。ところが、社会のルールというか社会のあり方にいつも正当性があるとは限らない。それはときにひどく理不尽なものだったり、統一感がなかったり、柔軟すぎたりする。自分たちが支援をしているような子どもたちには、このことが負担になる。自閉症児はその典型である。社会性が求められるのは障害の有無を問わず、万人に対してであり、社会性を求められるのが負担だからと自分にとって快適でない共同体から逃れられるなら逃れたいと思っている人はたくさんいるのではないかとも思うのだが、自閉症という障害が「健常者」と連続性をもつのではなく、全く別の認知メカニズムを持っているのだから、と言われれば、無理なことは求めるべきでない、という話になる。
 そして、支援者にすれば、周囲の環境を整えることが大事な仕事になる。「構造化」などの手法を中心として、あれやこれやと工夫をする。自分も日々、そんな勉強はしているつもりだ。この夏休み中も頻繁に施設設備を貸してもらっている養護学校など、構造化の塊のような場所である(この界隈の養護学校は全国的に見ても、自閉症関係の研究には熱心であるらしい)。間違いなく言えることは、学校というのは最も環境の側を子どもに合わせやすい場所だ。養護学校とて集団生活の場であるのだから、社会性が求められてもおかしくないが、それを求めることの困難さもよく知られている。社会性はちょっとずつ長年かけて積み上げればいい、無理なら負荷のかかる環境を本人に強いるのはよそう、と。これらは全くの正論だ。「ずっと学校のような整った環境にいられるわけじゃないのだから」と厳しい環境を強要しても、無理なものは無理だろう。
 ところが、複雑な思いを抱かずにいられないのは、「社会性」に障害があるのだから、とか、あるいは「認知」に障害があるのだから、複雑な環境によって負荷がかかりすぎる、と言われてしまうと、もはや地域生活そのものが本人にとっては負担である、ということにもなりかねない、ということである。これが非常に現実味のある話だということは、こうままさんの日記からもわかる(http://koumama.seesaa.net/article/23086396.html)。まさに「人里離れた山奥で陶器を焼く」ことが本人にとってよいのであれば、地域生活のために必要な力など身につける必要はなくなる。この考えを支持する専門職や研究者がいるのも理解できるし、徹底的に生活の多様性を尊重していけば、最後に行き着くところはそこかもしれない。そこでは入所施設さえ、単なるひとつの居住形態として認められるかもしれない。
 それでも、現状として、自閉症児・者は「脱地域」のほうへと向かっていって本当によいのだろうか。まず自分は、認知や社会性に関する特性が強調されることで、地域で共に生きたいと思う者までも「分けられる」ことを危惧する。施策は経済的な合理性を正当化するために、どんな理由だって持ち出して活用する。「入所」から「地域移行」へという時計の針を戻していいとは思えない。時計の針は1日経てば、また元に戻るのかもしれないが、その1日の間の出来事は無意味でない。地域の中で生きていかなくてもいいんじゃないか、と言うときは、くれぐれも丁寧な条件づけのもとに言わなければ、それは誰か別の当事者にとって不利に作用するのではないか。
 また、この5年ほどの間、学童保育所という極めてごちゃごちゃして、複雑でわかりにくい環境の中で過ごす自閉症児を複数名見てきた。たしかに本人にとって苦しい場面もあっただろう。しかし、長い時間をかけて多くの他人と関係を築きながら成長していく自閉症児もいた。周囲と次第に折り合いをつけていけるようになっていった子どももいた。実証的なデータの積み上げができているわけではない。一支援者の経験的な印象論に過ぎないかもしれない。実践の中で子どもが思いがけない表情やコミュニケーションを見せたり、うまく周囲に溶け込むことができた経験は本当に「ここで支援をしていてよかった」と思えるものだったが、概して学校教員や保護者はそんな可能性に関心を示してはくれなかった。その可能性は、自閉症についてのプロフェッショナルには稚拙な誤解か、あるいは熱心な地域福祉推進派の盲目的主張として一蹴されるのかもしれない。そんな「可能性」をなぜ追求する必要があるのか、と言われてしまえば、主張そのものも無効にされてしまうのだろう(ちなみに、そんなプロフェッショナルも「養護学校も多様な子どもが予測できない行動をしたり、行事ごとで予定が不安定になったり、個別の空間の確保に限界があったり、重度の自閉症の子どもにとっては負担になるから行かないでいい」とは決して言ってくれない。それが自分には不満に思えて仕方がない(学校に行きたがらない子どもの保護者の中には同じような疑問をもっていた人もいた)。きつい言い方になるが、あくまで本人目線に立つなら、子どもは学校に行くべしということだけが、学校や家族にとって都合よく守られてはいないだろうか。そこに不徹底はないのか)。
 我々は本当に「社会と関わらずに生きていくのも、良い」というところまで思い切って言えるのだろうか。排除されるのでなく、自ら進んで出ていくならばよいではないか、と言えるのだろうか。本人が望むことなら、認められるべき、というとき、この社会に暮らす多くの人々は「本人が望んでも認められないこと」をたくさん抱えながら生きているはずだが、それが認められる(あるいは「本人の意に反した行為を本人に求めることが周囲に許されない」)ということが「障害」を理由にありうるのだろうか。それが部分的に認められるとしたら、いったいどの部分において、であろうか。
 関係者といっしょに深く考えたいテーマなので、少し単純化して挑発的な内容になった。読み返すと、いくつか言葉の使い方のおかしなところとか矛盾点などあるが、もう遅い時間なので、ひとまずこれで更新します。