泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[近況]大人たちの間違った情熱

 はじめての自立支援法請求事務は、なんだか「これで本当にいいのだろうか?」と思いながら、終了。受給者証の内容そのものが明らかに間違っている人も複数いて、自治体の混乱ぶりも相当にひどい。さらには、どうやら3月分の請求をいまチェックしているようで、福祉課から修正の連絡がきた。4月分のチェックはいつのことになるのだろう。
 もうあと少ししたら、地域生活支援事業について自治体との話し合いが活発になってくるはず。すでにこのあたりの共同作業所は集まって協議をはじめているようだ。極めて規模の小さい共同作業所は合併などを視野に収めている。移動支援の行方はいまだ不透明だが、自治体の予算は限られている。これらの動きと無縁ではあるまい。市町村事業全体の動向を踏まえなければならないというのは、とても悩ましい。同じ地域の事業者間で予算の奪い合いはしたくないが、他のところの経営まで考えていられないというのも正直なところである。
 ゴールデンウィーク明けぐらいからは、また学童保育所のことで悩んでいる。4月から受け入れがはじまった学童で、指導員の障害をもつ子に対する風当たりがだんだん強まっており、なんだかこの制度の開始当初に他の学童で生じたことを再現しているかのよう。
 全体のルールに添えない子どもに対して、指導員たちは「もっと厳しくやれば、ルールに添えるようになるのではないか」という。この主張のやっかいなのは「子ども自身がもっと潜在的な力をもっているのに、大人が『できない』と思い込んでいるのではないか」という「善意」から生じているように装ってくることだ。指導員のホンネはと言えば、結局のところ「みんなといっしょにできない者が1人いると、全体の統制がとれない」ということでしかない。皆に認めていないことをひとりだけ認めてしまえば、大人として子どもに納得のいく説明ができない、と。
 これへの反論は、子どもの「できない」部分を強調せざるをえない。ある種の空しさはただようが、それでもできないものはできないのだから、仕方が無い。それでも指導員たちは「できる」部分もいくらか見ているので「できない」というのは思い込みではないか、と納得しない。また、「できているときもあるのだから、本当はできるはずだ」という思いもあるのだろう。
 「できるけど、しない」というのは一般に責められることだろうが、「できるから、する」「できるから、しようと思える」ということもまたひとつの能力なのだということはなかなかわかってもらえない。また、今できることが、この先もできるとは限らない。知り合いの保護者は「折れ線グラフだ」と言った。とりわけ自閉症児の成長過程は単純でない。
 一方、子どもたちはどうかと言えば、これといって不満をもらすでもなく、仲良く過ごしている。いや、みんな仲良くというわけではないけれど、まさに「共生」している。自ら障害をもつ子どもに関わりにいく子どももいれば、無関心な子どももいる。その子に特有のこだわりを面白がったり、こだわりゲームに乗っかってくれる子どもたちもいる。無理難題を言われ、怒り出す子もいる。イヤなことは、イヤと言えるようになっていけばよいのだから、大人がすべきことはあれこれと障害をもつ子に注意することではなくて、子どもたちどうしが関係を築いていくのを手助けすることであるし、これは学童保育がもつ理念とも見事に一致している。
 過度にその力を見積もられる障害児と、コミュニケーションスキルを信用されていない周囲の子どもたち。指導員の怒鳴り声、金切り声は障害児にばかり向けられるが、ここで見くびられているのは全ての子どもたちなのである。しかし、大人たちはそのことに気づけない。何年経っても、気づこうとしない人にはチャンスがやってこない。間違った情熱は、いつだって聞く耳をもたないのだ。
 何度も裏切られながらも自分が学生を好むのは、彼ら彼女らがこんな大人にはまだなっていないからかもしれない。そして、多くの利用者が学生ヘルパーを好むのも、同じ理由かもしれない。そう考えると、学生ヘルパーばかりを望む利用者を自分は責められないのだろうか(責めているつもりはないのだけれど、少なくとも愚痴ってはいる)。うーん。